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我が心は石にあらず~瀬戸内の石風呂文化

いまの時代に高橋和巳(1931年~1971年)を論じる者は

「よほどの文学好きで,しかも,その政治的かつ思弁的な関心の強さにおいて変わり者」

清 眞人「高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り」

に叙されるのであれば,瀬戸内の石風呂文化を再興し,次代への継承を目論む者も「よほどの変わり者」の称号を授かるに値する。

石風呂とは,

「イシ(素材が石)」の「フロ(蒸気・熱気浴)」であり,「岩窟や石積構築物の密閉性のある浴室を,センバ(松枝),シダ,雑木などを燃やして高温」にし,「浴室の床にモ(アマモ)やセキショウ(石菖),塩水で濡らしたムシロなどを敷き,その上で臥せたり座ったりして温まる」日本古来の入浴文化。「サウナより発汗効果は大きい」とされている。

印南敏秀「石風呂民俗誌 もう一つの入浴文化の系譜」

石風呂文化の継承を主導する愛知大学地域政策学部 教授(当時)の印南敏秀  氏によると,江戸時代には,瀬戸内沿岸だけで数千ヵ所にあったとみられ石風呂も,社会の変化に伴い第二次世界大戦を境に急速に衰退。
それでも1997年(平成9年)末時点では,山口県,広島県,愛媛県などに16ヵ所の営み続ける石風呂が認められた。

当時,この活動する石風呂を調査,分析した印南 氏は,石風呂文化の忘却に抗い,継承に苦悩する人々の姿を記録した。

高橋和巳の文学もまた,清眞人 氏によれば
「生真面目なほどの一途さで「戦後」のいうならば《忘却への意志》にたとえ独りになったとしても抗おうとした文学」
あるいは「共苦」の文学と評される。

高橋の代表作の一つ「我が心は石にあらず」において,主人公 信藤誠をして

「精神的な〈共犯者〉,いやその言葉が度ぎつすぎるなら〈同伴者〉,
なお敢えて言い換えるなら〈共苦者〉を求めていた」

清 眞人「高橋和巳論 宗教と文学の格闘的契り」

と言わしめる。
しかし,信藤誠は理想を追求した地域協議会活動に挫折する。

「私はふと,戦いに敗れたのではなく,この平和に勝てなかったのかもしれぬと」
「限界的な状況で身構えるすべは知っていても,変わりばえのしない日常の中で,名誉も称讃もない自己との闘いを闘うすべを私は知らなかった」

高橋和巳「我が心は石にあらず」

石風呂文化再興を志す〈共苦者〉たちも,現代の《忘却への意志》に打ち克つことはできないのであろうか。

大島石を産出する愛媛県今治市宮窪町が所在する「石の島」愛媛県大島
国会議事堂,日本銀行,大阪心斎橋,西郷隆盛銅像台などの建築材として重用された花崗閃緑岩の銘石の島には,しまなみ海道随一の眺望とも評される亀老山展望公園がある。崎嶇とした石鎚山の遠望と夕映えの来島海峡大橋を眼下にとらえる亀老山展望台は,隈研吾建築都市設計事務所の作品。

「建築を消そう」という試みのもと,もとの山頂の地形に修復し,展望台を埋蔵する「見えない建築」を提案した隈研吾 氏は,著書「負ける建築」において,次の通り述べている。

「まず,切断としての建築という前提を疑うところから始めたい。切断としての建築ではなく,接合としての建築というものがありえないか。」

「たとえば空間的な接合。建築とその周囲の空間とを,ひとつながりのものに接合してしまうのである。」

「全く逆に地面のような建築はどうだろうか。地面は切断することができず,延々とつながっている。そこでは大きさというものの,意味がなくなる。」

「あるいはそこにころがっている石ころのスケールである。地面は花や石ころのスケールとして出現する。花や石ころはわれわれにとってここちよく,やさしい。」

石の島に接合する作品の贈り主たる隈研吾氏。
同氏は「接合としての建築」の概念に関し,「空間的接合」「物質的接合」「時間的接合」を唱えている。

「物質的にも建築と周囲とを接合できないだろうか。二〇世紀の建築は,周囲の環境を構成する物質とは異質の物質を用いて作り上げることを前提としていた。たとえばコンクリートや鉄材のように」

「異物で作られた建築は,時がきて朽ちても,再び土にはかえらない。」

地面と接合し,ここちよくやさしく,時がきて再び土にかえる。
そのような石風呂を考案した人物がいる。
愛媛県今治市で「瀬戸内石風呂文化継承の会」を主宰する阿曽沼温良 氏。

今治市には,菊間町浦が浜,大西町九王,大新田,桜井などに海水浴場に併設された石風呂が存在したこともあり,石風呂体験をなつかしむ人が多く,石風呂文化への息づかいがいまも感じられる。

阿曽沼氏は,瀬戸内の石風呂文化を次代に継承すべく,地域固有の資源を活かし,いずれは土にかえる石風呂を考案した。

「だるま窯様式の石風呂」

いぶし瓦の産地で知られる菊間地区で焼成に使用されてきた「だるま窯」の仕様を取り入れ,日干しレンガ作りから始め,屋根瓦としての役割を終えた菊間瓦を再利用する,「周囲の環境を構成する物質」で製作された石風呂。

「逆にその周囲にころがっている,凡庸な物質を使って建築を作れないだろうか。たとえば地面の土をそのまま固めて,積み上げて建築は作れないだろうか。この工法は少しも新しい工法ではない。日干しレンガ(アドベ)と呼ばれる工法で,かつては地球上の広いエリアで日常的に行われていた。現在でも南米やアフリカではアドベで建設された家に多くの人が住んでいる。
この工法をもはやノスタルジーとは呼べない。物質の浪費が建築であるという定式をくつがえす先端のテクノロジーである。建築は物質を浪費しないかもしれない。むしろ物質を再生し,蘇らせるかもしれない。建築は物質の循環の一部へと接合されうるかもしれない。」

以上,隈研吾「負ける建築」

空間と物質と時間を接合する「だるま窯様式の石風呂」は,「もはやノスタルジーとは呼べない」。

《忘却への意志》を超克したのである。

我心匪石  我が心こころは石に匪ねば
不可轉也  転ばす可からざる也
我心匪席  我が心は席に匪ねば
不可巻也  巻く可からざる也
威儀棣棣  威儀は棣棣として
不可選也  選う可からざる也

吉川幸次郎 注「詩經國風 上」卷の三 邶風

およそ2800年の時間を接合して,石風呂文化継承の〈共苦者〉たちにささげられる。


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