穂積薫 | 地域をあるく,あらわす,つなぐ

「地域をあるく・あらわす・つなぐ」 四国,瀬戸内を中心にルポ、エッセイなどの作品を創作…

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「地域をあるく・あらわす・つなぐ」 四国,瀬戸内を中心にルポ、エッセイなどの作品を創作しています。

最近の記事

いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~(旅へのいざない)四国循環鉄道 “宇和島から宇和島へ” 途中停車の駅旅

・宇和島駅 6:00発 “窪川行” (予土線)→ 窪川駅 8:09着(待合時間 1時間55分) ・(A)窪川駅 10:04発“あしずり6号 高知行” → 高知駅 11:06着 ・(B)窪川駅 10:04発“あしずり6号 高知行” → 須崎駅 10:28着     須崎駅 10:34発 “高知行” → 高知駅 11:48着 ・高知駅 12:45発 “琴平行” → 土佐山田駅 13:12着(停車時間 31分) ・土佐山田駅 13:43発 → 大歩危駅 14:57着(停車

    • 美の”玉川”~五島慶太と徳生忠常

      首都圏域に土地勘のある方であれば,”玉川” と称する地名といえば,東急田園都市線二子玉川駅を含む多摩川沿いの地域が,まず思い当たるのではなかろうか。 いまの世田谷区の一部たる玉川地域は,かつて東京府荏原郡玉川村と称していた。 1889年(明治22年)に上野毛村,用賀村などが合併した際に,多摩川の別称に因み名付けられ,1932年(昭和7年)に世田谷区が成立するまで存続した。 この旧玉川村は,等々力渓谷などの自然に恵まれるとともに,野毛大塚古墳などの遺跡,遺物出土地も所在している

      • 源氏の白馬か羊の群れか?~カルスト台地にみる戦争と平和

        東西25km,標高1100~1400mを誇る ”四国カルスト”。 この高原の西に位置するのが西予市野村町大野ヶ原。 この酪農地帯を眼下に一望し,遠く豊後水道まで見通す景観スポットに ”源氏ヶ駄馬”(げんじがだば)という名称の一帯がある。 この一風変わった地名は,源平の戦いに敗れた平家の残党が,白い石灰岩を源氏の白馬と見誤って退散したとの伝承に由来する。 カルスト地形の景観を特徴づける石灰岩を,当地では馬に見立てた次第。 一方,同じく三大カルストの一つ ”平尾台” (福岡県

        • いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~壺神山 零士の宇宙と清張の古代(あとがき)”清く 正しく 美しく”

          メガロポリス中央駅を0時00分に発車する銀河超特急999号は,最初に火星に停車した後,タイタン,冥王星・・・と,いくつもの星に停車して終着駅をめざします。 停車時間は “その星の1日” と定められていることから,火星の24.37226時間,分岐点トレーダーの3日と22時間15分など,長短もそれぞれです。 この停車時間中に,鉄郎は出会いと別れを経験し,条理と不条理にぶつかり,少年から大人へと続くレールの先へと進んでいくことになります。 停車時間が 2週間と6時間21分32

        いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~(旅へのいざない)四国循環鉄道 “宇和島から宇和島へ” 途中停車の駅旅

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(あとがき)”バス停留所 散宿所前”

          愛媛県で 2番目の発電所が操業した 今治市玉川町長谷。 往時の長谷発電所の面影を残す “記念碑” ともいえるのが, バス停留所 “散宿所前” せとうちバスの大動脈 “大三島・今治~松山線” の特急バスが停留します。 明治29年5月9日 制定の電気事業取締規則(逓信省令第5号)には,電気事業者に対し,散宿所を設置し,技術者等を駐在させて,設備の保守点検に当らせることが定められています。 この “散宿所” の呼称及び施設は,いつ頃まで通用していたのでしょうか。 愛媛県北宇和

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(あとがき)”バス停留所 散宿所前”

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(3)

          議員立法まで働きかけて,未点灯集落の解消をめざし,農山村・離島の生活文化向上に献身した織田史郎。 彼が電気事業へと進む動機となったのが,6人兄弟の長男として家計を支えることにあったのは,先述の通り。 この織田家には運動を得意とする兄弟姉妹が多かったと史郎は広島弁で語る。 史郎の経済的支援を受けて,上級学校への進学を果たし,陸上競技活動に邁進。猛練習の末に三段跳選手として歴史に名を刻むこととなるのが,明治38年(1905年)織田家の3男として誕生した“織田幹雄”である。 昭

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(3)

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(2)

          玉川湖を有し蒼社川が貫流する “森と湖の郷” 今治市玉川地区。 渓谷に沿う鈍川温泉には,蒼社川の支流 木地川の “水辺のテントサウナ” でも好評を博す日帰り温浴施設 “鈍川せせらぎ交流館” がある。 この温浴施設とテントサウナ・ベースの対岸に,鈍川発電所(四国電力株式会社)がある。 木地川の更に1.5㎞ほど上流部の堰堤から取水する,水圧管の長さ約500m,有効落差約138m,認可出力800kWの比較的小規模な水力発電所である。 この発電所は,昭和29年(1954年)に出力

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(2)

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(1)

          細野晴臣,大瀧詠一,鈴木茂とともに,バンド “はっぴいえんど” を結成し,作詞を担当した松本隆は,1971年にリリースしたアルバム “風街ろまん” のイメージについて語る。  “アスファルトがめくれて土が見えると,そこにぼくの幼年時代が見えてくる” という,東京生まれの松本。“風”をモチーフとした作品のなかを,幼年時代の記憶が吹き抜けていく。 “風街ろまん” に収録された作品のひとつ “風をあつめて” 幼年時代の記憶の螺旋階段。 蒼蒼とした端午の節句に,まぶしさにたじろ

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(1)

          5時51分 松山発 宇和島行~もうひとつの伊予灘ものがたり

          霧島,雲仙とともに,日本初の国立公園として “瀬戸内海” が指定されたのは,およそ90年前の1934年(昭和9年)3月。ただし,指定区域は備讃瀬戸を中心とする小豆島から鞆の浦に至る区域で,香川県,岡山県及び広島県の陸域と海域に限られていた(第一次指定)。  その後1956年(昭和31年)5月の第三次指定により,海域が紀淡海峡から関門海峡まで拡張され,現在の瀬戸内海国立公園の輪郭を呈するようになった。 90万haを超える我が国最大の国立公園は,1府10県にまたがっている。

          5時51分 松山発 宇和島行~もうひとつの伊予灘ものがたり

          能登はやさしや土までも~復興への一献(3)

          輪島(能登),金沢,山中(いずれも加賀)などを回り,日本海沿岸を南下して瀬戸内に入り,故郷を待ち望む “椀屋さん”(椀舟行商人)たちの眼に真っ先に映るのは,綱敷天満宮の鳥居と志島ヶ原の白砂青松の風景であったのではなかろうか。 桜井漆器産業の発展史を語る上で欠かせない加賀と能登は,白砂青松の「白」と「青」を象徴する土地柄でもある。     加賀は清々しい「白」の国である。 烽火に最適なのが乾燥したオオカミの糞であり,モンゴルの草原ではオオカミの糞が烽火に使われたとのこと。

          能登はやさしや土までも~復興への一献(3)

          能登はやさしや土までも~復興への一献(2)

          村上龍太郎が国土緑化推進委員会常任委員長として実現させた全国植樹行事(植樹祭)は,1950年(昭和25年)山梨県で第1回全国植樹祭が開催され,ヒノキがお手植えされ,スギ,ヒノキがお手播きされた。 村上の出身地 愛媛県については,1966年(昭和41年)久谷村(現在の松山市久谷)で開催され,スギがお手植えされ,クロマツ,アカマツなどがお手播きされた。 同じく1966年に毎日新聞社が “緑のニッポン全国運動” を提唱して,都道府県の木の制定を呼びかける。 愛媛県の木は “マ

          能登はやさしや土までも~復興への一献(2)

          能登はやさしや土までも~復興への一献(1)

          白砂青松 ― 故郷であるいは旅先で,松林を過ぎゆき,まばゆい砂浜で戯れたひと時。 島国の原風景のひとつともいえる海辺の松原でのいこいは,いにしえ人のこころにも深く刻まれたものとみられる。 「白砂」も「青松」も中国の古典を典拠とする。 この東方と西方の色をあわせた「白砂青松」の四字熟語については,漢籍ではなく日本で造語されたものとする説がある。 “松と日本人”などの著作のある有岡利幸 氏は,1874年(明治7年)に文部省が発刊した “萬国地誌略” 中の天橋立についての記述

          能登はやさしや土までも~復興への一献(1)

          甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(3)

          阿讃山地の南麓,吉野川の北岸の地は,神宅を含む阿波三盆糖の産地であるが,四国遍路の発心の地でもある。第1番札所 霊山寺から第10番 十楽寺までは,かつての板野郡の道筋であり,とりわけ第5番 地蔵寺から第6番 安楽寺までは,神宅を過ぎゆく道のりである。 神宅出身の阿部賢一が早大総長を退任した翌年,昭和44年(1969年)2月この地を道ゆく姿があった。 元全日本学生自治会総連合 中央執行委員長 唐牛健太郎(1937~1984年)と妻 真喜子である。 昭和12年(1937年)

          甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(3)

          甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(2)

          讃岐とは阿讃山脈を境とし,同じく和製糖の主要産地となった阿波。 製糖業の始祖は板野郡引野村(現在の徳島県板野郡上板町)の丸山徳弥といわれている。 安永5年(1776年)日向 延岡へ渡り,国外持出し禁止の甘蔗苗を隠匿して持ち帰り,植え付けたことに始まるという。 讃岐と同じく阿波でも,四国遍路との関わりが伝えられている。 もっとも,阿波 板野郡は,阿讃山脈を境に讃岐 大内郡と隣接していることから,讃岐からの伝播説もある。 神宅村の百姓何某が讃岐 大内郡湊村より苗を取り寄せ,丸

          甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(2)

          甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(1)

          “風のたより”に旅の途上にある人の消息を知る。 手のひらに収まる携行品が,所在を絶え間なく知らせる現代において,このような流儀は,もはや至難の芸当なのかもしれない。 “清川だし”(山形県庄内平野),“広戸風”(岡山県那岐山麓)と並び称される日本三大局地風のひとつ “やまじ風” の里 土居(愛媛県四国中央市)。 法皇山脈と燧灘(瀬戸内海)に挟まれたこの地域は,西条藩領に属する土居,入野,畑野と幕府領 浦山の各村が,明治22年(1889年)の市町村制の施行の際に合併し,新たな土

          甘蔗の道~1969年 唐牛健太郎の四国遍路(1)

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~壺神山 零士の宇宙と清張の古代(3)

          松本零士が小倉での高校生時代に“蜜蜂の冒険” により第1回漫画新人王に入選し,新人王を受賞する前年の1953年(昭和28年),同じく小倉在住の作家が “或る「小倉日記伝」” により第28回芥川龍之介賞を受賞する。   1909年(明治42年)生まれの松本清張(本名 清張「きよはる」)は,芥川賞受賞の直後に上京し,作家としての本格的な執筆活動に入る。“点と線” をはじめ“ゼロの焦点” “砂の器”など,鉄道により物語の舞台が展開していく作品は,停車する星で起こる事件により物語をつ

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~壺神山 零士の宇宙と清張の古代(3)