穂積薫 | 地域をあるく,あらわす,つなぐ

「地域をあるく・あらわす・つなぐ」 四国,瀬戸内を中心にルポ、エッセイなどの作品を創作…

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「地域をあるく・あらわす・つなぐ」 四国,瀬戸内を中心にルポ、エッセイなどの作品を創作しています。

最近の記事

不果志の弁明 ー 木村久夫の余白,菅季治の遺稿(あとがき)

唐木順三(1904~1980)は,“自殺について ― 日本の断層と重層 ― ” のなかで,木村久夫と菅季治について論じています。 木村久夫が “哲学通論” の余白に, “実に立派な最期の文章をかきこんで” いる一方で,執行前夜に短歌を詠んだことを “急屈折” と評しています。 木村たち若い学徒と東條英機ほかのA級戦犯との間には,“思想においては共通領域をもつことのむずかしい二つの世代が,死に臨んでほとんど同じような短歌をものしていること” について,“二つの世代は思想的に

    • 不果志の弁明 ー 木村久夫の余白,菅季治の遺稿(後編)

      木村久夫がわずか半年の学究生活を断絶し,臨時招集に応じた1942年(昭和17年)10月,経済学徒の木村と入れ替わるかのように,京都帝国大学大学院哲学科に入学し,学究生活を始めた人物がいる。 菅季治 (かん すえはる) は,木村よりも1年早い1917年(大正6年)愛媛県宇摩郡津根村(現在の四国中央市土居町津根)の農家に生まれた。 5歳の時,生家は津根での農業をやめ,北海道常呂郡野付牛町(現在の北見市)に移住し,染物業を営む。 野付牛は,1897年(明治30年)坂本龍馬の甥 坂

      • 不果志の弁明 ー 木村久夫の余白,菅季治の遺稿(中編)

        高知高等学校の流れをくむ高知大学朝倉キャンパスにある学術情報基盤図書館(中央館)。 蔵書約517,000冊の中に,“木村文庫”(465冊)がある。 戦前に発刊された国富論(アダム・スミス),ローマ人盛衰原因論(モンテスキュー),西洋近世哲学史(安倍能成)など,経済学,社会学,歴史,哲学などの蔵本の中に,蔵書番号324 “経済原論”(小泉信三,1937年)がある。 この“経済原論”の表紙裏面には,メモ書きが残る。 母校 高知高校の図書館の充実を願い,“若き社会科学者の輩出のた

        • 不果志の弁明 ー 木村久夫の余白,菅季治の遺稿(前編)

          獺祭魚たる書斎から数冊を旅行鞄にしのばせ,避暑地での耽読。 定宿での思索と散策にふける至高の時間は,幼少期の本への惑溺を“読書の祝祭”として,あこがれ,追体験するひとときなのかもしれない。 浅間山を眺望する軽井沢山荘を仕事場とした,小説家にして学習院大学文学部フランス文学科 教授 辻邦生(1925~1999年)は,このような読書経験を “懐かしい読書” と称し,自身の原体験で知り得た “小説の無頼の面白さ” について回顧を続ける。 こどもの頃から書物に囲まれた生活にあこが

        不果志の弁明 ー 木村久夫の余白,菅季治の遺稿(あとがき)

          峰越しの道 ~ 林道 東津野・城川線

          土佐檮原から国境を越え,伊予長浜から周防三田尻を経て長州へと坂本龍馬が脱藩疾走したのは文久2年(1862年)。 およそ80年後の昭和16年(1941年),故郷 周防大島から船便にて八幡浜に渡り,同じく韮ヶ峠を越えて檮原へと逆ルートを踏査し,「土佐源氏」を著した宮本常一。 73年の生涯で延べ4千日,16万キロ(地球を4周)の道を歩いた(佐野眞一「旅する巨人」)民俗学者は,道づくりの人としても,遺産を残した。 愛媛県西予市城川から四国カルストへと通り抜ける観光ルートとしても利

          峰越しの道 ~ 林道 東津野・城川線

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~(旅へのいざない)“火の路”海上からみる壺神山と“銀河鉄道999”新谷駅から五郎駅へのみち

          ・松山駅 5:51発 “宇和島行” → 伊予長浜駅 7:14着  (徒歩5分)→ 長浜港 8:00 発 “青島行” → 青島港 8:35着 ・青島港 8:45発 → 長浜港 9:20着 ・伊予長浜駅 10:59発 “宇和島行” → 伊予大洲駅 11:26着  ~ (徒歩18分)“との町 たる井” ・伊予大洲駅 14:11発 “松山行” → 新谷駅 14:17着 ・ 矢落川堤 “四国のみち” →(徒歩50分)→ 五郎駅前 酒乃さわだ ・五郎駅 15:40発 “松山行”

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~(旅へのいざない)“火の路”海上からみる壺神山と“銀河鉄道999”新谷駅から五郎駅へのみち

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~(旅へのいざない)四国循環鉄道 “宇和島から宇和島へ” 途中停車の駅旅

          ・宇和島駅 6:00発 “窪川行” (予土線)→ 窪川駅 8:09着(待合時間 1時間55分) ・(A)窪川駅 10:04発“あしずり6号 高知行” → 高知駅 11:06着 ・(B)窪川駅 10:04発“あしずり6号 高知行” → 須崎駅 10:28着     須崎駅 10:34発 “高知行” → 高知駅 11:48着 ・高知駅 12:45発 “琴平行” → 土佐山田駅 13:12着(停車時間 31分) ・土佐山田駅 13:43発 → 大歩危駅 14:57着(停車

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~(旅へのいざない)四国循環鉄道 “宇和島から宇和島へ” 途中停車の駅旅

          美の”玉川”~五島慶太と徳生忠常

          首都圏域に土地勘のある方であれば,”玉川” と称する地名といえば,東急田園都市線二子玉川駅を含む多摩川沿いの地域が,まず思い当たるのではなかろうか。 いまの世田谷区の一部たる玉川地域は,かつて東京府荏原郡玉川村と称していた。 1889年(明治22年)に上野毛村,用賀村などが合併した際に,多摩川の別称に因み名付けられ,1932年(昭和7年)に世田谷区が成立するまで存続した。 この旧玉川村は,等々力渓谷などの自然に恵まれるとともに,野毛大塚古墳などの遺跡,遺物出土地も所在している

          美の”玉川”~五島慶太と徳生忠常

          源氏の白馬か羊の群れか?~カルスト台地にみる戦争と平和

          東西25km,標高1100~1400mを誇る ”四国カルスト”。 この高原の西に位置するのが西予市野村町大野ヶ原。 この酪農地帯を眼下に一望し,遠く豊後水道まで見通す景観スポットに ”源氏ヶ駄馬”(げんじがだば)という名称の一帯がある。 この一風変わった地名は,源平の戦いに敗れた平家の残党が,白い石灰岩を源氏の白馬と見誤って退散したとの伝承に由来する。 カルスト地形の景観を特徴づける石灰岩を,当地では馬に見立てた次第。 一方,同じく三大カルストの一つ ”平尾台” (福岡県

          源氏の白馬か羊の群れか?~カルスト台地にみる戦争と平和

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~壺神山 零士の宇宙と清張の古代(あとがき)”清く 正しく 美しく”

          メガロポリス中央駅を0時00分に発車する銀河超特急999号は,最初に火星に停車した後,タイタン,冥王星・・・と,いくつもの星に停車して終着駅をめざします。 停車時間は “その星の1日” と定められていることから,火星の24.37226時間,分岐点トレーダーの3日と22時間15分など,長短もそれぞれです。 この停車時間中に,鉄郎は出会いと別れを経験し,条理と不条理にぶつかり,少年から大人へと続くレールの先へと進んでいくことになります。 停車時間が 2週間と6時間21分32

          いま万感の想いを込めて汽笛が鳴る~壺神山 零士の宇宙と清張の古代(あとがき)”清く 正しく 美しく”

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(あとがき)”バス停留所 散宿所前”

          愛媛県で 2番目の発電所が操業した 今治市玉川町長谷。 往時の長谷発電所の面影を残す “記念碑” ともいえるのが, バス停留所 “散宿所前” せとうちバスの大動脈 “大三島・今治~松山線” の特急バスが停留します。 明治29年5月9日 制定の電気事業取締規則(逓信省令第5号)には,電気事業者に対し,散宿所を設置し,技術者等を駐在させて,設備の保守点検に当らせることが定められています。 この “散宿所” の呼称及び施設は,いつ頃まで通用していたのでしょうか。 愛媛県北宇和

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(あとがき)”バス停留所 散宿所前”

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(3)

          議員立法まで働きかけて,未点灯集落の解消をめざし,農山村・離島の生活文化向上に献身した織田史郎。 彼が電気事業へと進む動機となったのが,6人兄弟の長男として家計を支えることにあったのは,先述の通り。 この織田家には運動を得意とする兄弟姉妹が多かったと史郎は広島弁で語る。 史郎の経済的支援を受けて,上級学校への進学を果たし,陸上競技活動に邁進。猛練習の末に三段跳選手として歴史に名を刻むこととなるのが,明治38年(1905年)織田家の3男として誕生した“織田幹雄”である。 昭

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(3)

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(2)

          玉川湖を有し蒼社川が貫流する “森と湖の郷” 今治市玉川地区。 渓谷に沿う鈍川温泉には,蒼社川の支流 木地川の “水辺のテントサウナ” でも好評を博す日帰り温浴施設 “鈍川せせらぎ交流館” がある。 この温浴施設とテントサウナ・ベースの対岸に,鈍川発電所(四国電力株式会社)がある。 木地川の更に1.5㎞ほど上流部の堰堤から取水する,水圧管の長さ約500m,有効落差約138m,認可出力800kWの比較的小規模な水力発電所である。 この発電所は,昭和29年(1954年)に出力

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(2)

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(1)

          細野晴臣,大瀧詠一,鈴木茂とともに,バンド “はっぴいえんど” を結成し,作詞を担当した松本隆は,1971年にリリースしたアルバム “風街ろまん” のイメージについて語る。  “アスファルトがめくれて土が見えると,そこにぼくの幼年時代が見えてくる” という,東京生まれの松本。“風”をモチーフとした作品のなかを,幼年時代の記憶が吹き抜けていく。 “風街ろまん” に収録された作品のひとつ “風をあつめて” 幼年時代の記憶の螺旋階段。 蒼蒼とした端午の節句に,まぶしさにたじろ

          創生と再生のスパイラル~水力発電とサウナ(1)

          5時51分 松山発 宇和島行~もうひとつの伊予灘ものがたり

          霧島,雲仙とともに,日本初の国立公園として “瀬戸内海” が指定されたのは,およそ90年前の1934年(昭和9年)3月。ただし,指定区域は備讃瀬戸を中心とする小豆島から鞆の浦に至る区域で,香川県,岡山県及び広島県の陸域と海域に限られていた(第一次指定)。  その後1956年(昭和31年)5月の第三次指定により,海域が紀淡海峡から関門海峡まで拡張され,現在の瀬戸内海国立公園の輪郭を呈するようになった。 90万haを超える我が国最大の国立公園は,1府10県にまたがっている。

          5時51分 松山発 宇和島行~もうひとつの伊予灘ものがたり

          能登はやさしや土までも~復興への一献(3)

          輪島(能登),金沢,山中(いずれも加賀)などを回り,日本海沿岸を南下して瀬戸内に入り,故郷を待ち望む “椀屋さん”(椀舟行商人)たちの眼に真っ先に映るのは,綱敷天満宮の鳥居と志島ヶ原の白砂青松の風景であったのではなかろうか。 桜井漆器産業の発展史を語る上で欠かせない加賀と能登は,白砂青松の「白」と「青」を象徴する土地柄でもある。     加賀は清々しい「白」の国である。 烽火に最適なのが乾燥したオオカミの糞であり,モンゴルの草原ではオオカミの糞が烽火に使われたとのこと。

          能登はやさしや土までも~復興への一献(3)