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源氏の白馬か羊の群れか?~カルスト台地にみる戦争と平和

東西25km,標高1100~1400mを誇る ”四国カルスト”
この高原の西に位置するのが西予市野村町大野ヶ原

この酪農地帯を眼下に一望し,遠く豊後水道まで見通す景観スポットに ”源氏ヶ駄馬”(げんじがだば)という名称の一帯がある。
この一風変わった地名は,源平の戦いに敗れた平家の残党が,白い石灰岩を源氏の白馬と見誤って退散したとの伝承に由来する。
カルスト地形の景観を特徴づける石灰岩を,当地では馬に見立てた次第。

一方,同じく三大カルストの一つ ”平尾台” (福岡県)では,同様の景観を羊の群れと捉えて ”羊群原”(ようぐんばる)と称している。

さて,馬と見立てた大野ヶ原が,四国有数の酪農地帯として名を馳せるまでには,明治期以降の馬に関する国策が大いに関係している。

終戦までの大野ヶ原の歴史は,陸軍と軍馬が主要な役割を演じた。
明治37年(1904年)から,善通寺第11師団の砲兵演習場,広島第5師団の山砲演習場として利用された後,

日中戦争に伴う軍馬育成が急務となり,馬政局の軍馬放牧場に造成され,軍馬の育成,訓練が行われるようになった。

戦前の大野ヶ原高原は,激動する戦時体制に組み込まれたのであった。

この明治期から戦前までの陸軍演習場と軍馬放牧場の造成過程に,戦後の大野ヶ原の開拓入植による草地形成に影響を及ぼした要因があるとして,野村高校でも教鞭をとった三好豊 氏は,以下の通り論じている。

明治期後半,砲兵演習場として造成され,その後跡地から軍事放牧場が造成されたが,戦後,初期入植者による開墾により,軍馬放牧場は農用地として利用された。

砲車道が建設されたことにより,それが道路として戦後入植者に利用された。高冷地の大野ヶ原は,入植者の生活,開拓農業の展開において,道路は最も重要な社会基盤の1つである。

以上,三好豊「高冷地酪農の草地形成過程と歴史」

この点,羊の群れの平尾台も同様であり,陸軍演習場用地が戦後に開拓入植され,現在に至っている。

かつての白馬,軍馬の地は,いま酪農の里として,乳牛たちの牧歌的な風景を呈する。
まさに平和の象徴たる
ちなみに ”羊・馬・牛” の三拍子揃った羨むべき地名を冠する地域がある。

北海道上川郡美瑛町美馬牛(びばうし)。

美:象形。羊の全形。羊(よう)は羊の上半身を前から見た形であるが,羊の後ろ足まで加えて上から見た形が美である。

白川静「常用字解」

美馬牛もまた,旭川第七師団の演習場が,戦後の開拓入植地となった歴史を留めている。

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