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座談会の地域格差

私は高校進学とともに下宿(一人部屋アパート)を始めました(県内公立高校だったものの、通学が難しかったため)。高校進学してからは野球に明け暮れ、信心からは少し離れました。具体的には、毎日行っていた勤行唱題をしなくなり、題目三唱するかしないか程度になりました。野球の練習がキツすぎて、それどころでは無かったのです。

ただ、毎月下宿先の地域の婦人部の方が手紙を入れてくださっていました。座談会の案内とともに、暖かいメッセージをいただいたのを覚えています。

自分の家が座談会の会場だったので、そういう類のものは受け取ったことが無かったので不思議な感覚でした。今まで自分が接してきた学会員とは少し違う。そんなことを感じていました。

高校2年生の秋の終わり。チームの中での自分の立ち位置から、このままではダメだという危機感が募り、再び勤行唱題をするようになりました。チームが秋季大会を早々に敗退し、基礎練習がメインになったことで時間的余裕ができたのも影響を及ぼしました。

そうして行くうちに、「座談会に出てみようかな」と思うようになりました。何か自分を変えたかったのです。

早速、毎月手紙をくれていたご婦人に連絡をとり、座談会会場を教えてもらい参加しました。


初めて参加した時の情景は今でも覚えています。

子育て世代の若い方が多く、活気に溢れていました。それでいて温かい空間で、自分がここにいていいという感覚を受けました。池田先生のスピーチや、会員の体験談に書いてある温かい学会の座談会ってこういう事なんだと身をもって知りました。

忙しい時もあり参加できない月もありましたが、それからは自然と、毎月座談会に出るようになりました。単純に楽しく、心が温かくなるからです。

同じく信仰を持つ人達との交流がこんなにも楽しく、実りあるものだなんて、実家にいる時は想像もつきませんでした。


また、この地区の座談会に参加して、御書を学ぶことができるようになりました。どの地区でも『大白蓮華』に掲載されている御書を学ぶのですが、御書講義がこんなにもわかりやすく楽しいものだなんて初めて知りました。

高校を卒業し、大学進学と共に引越し後も交流はしばらく続きました。今は連絡先が分からなくなり途絶えていますが、元気にしているでしょうか……。


創価大学進学後の地区でも、とても温かな交流を育ませてもらいました。自分は大学3年途中から1年半、うつで療養していたのですが、地区部長から療養後半から卒業まで毎月食事に連れていって貰いました。とくにうつの事に触れることなく、普通に話ができる時間は貴重なものでした。

また、自分は学生部のグループ長を務めていましたが、そこの部員さんに支部長・地区副婦人部長の息子さんがおられました。地区副婦人部長からは念入りに「よろしくね」とことある事に話されてましたが、家族ぐるみで交流があり、とても楽しかったです。

ある時の座談会後には、参加していた男子・女子学生部員を引き止めお茶を出してくれたり出前をとってくれたりしました。

今でも地区部長や支部長とは年賀状等で交流が続いています。


卒業後は実家に戻り活動を続けていたのですが、座談会に参加すると強い違和感を覚えました。


暗くてつまらなくて歓喜のない座談会が私を待ち受けていました。

なんでそう感じたのかはわかりません。

でも、今まで参加していた座談会と空気が全く違うのです。

こんな座談会は出たくない。

途中から自分の地区の座談会には参加しなくなりました。


卒業した翌年、再び実家を出て一人暮らしを再開した私は、地域の座談会に参加しました。

そこは、高校・大学と変わらない座談会が待っていました。


なんでこんなに違うんだろう、どうして実家の座談会はあんなにも耐え難いものなんだろう。

毎月参加したくなるような座談会に喜んで参加している現状と、この地域格差は今でも自分を悩ませます。


辺境の地の座談会と、郊外の地にある座談会。

そこに存在する確かな断絶。

これは一体何なのか。

座談会にこれほどの格差があるならば、その格差によって信心の歓喜が薄れるどころか消えてしまう。却って嫌いにさせてしまう。

でも、その地域の会員にとっては、それが当たり前の座談会であってそのままがいいのかもしれない。辺境の地の座談会では多くの方がお年を召した方でした。

そうなると、自分がその地を離れるか、諦めるかしかありません。もちろん変えようと奮闘する選択肢もあるのですが。


こうした格差は座談会だけではありません。

それについては、また別の機会に述べることにします。

それでは