見出し画像

2回離婚した話②会社の役員に勝手になっていた編

昨日、2回離婚した話①を読んでくださってありがとうございました。

今日は、その続きね。

1回目の離婚後、もう二度と結婚はしないと思いました。離婚後はたいていの人はそう思う。離婚は結婚するより大変。
離婚後、わたしを洗脳していたヒーラーは、なんと他にもあちらこちらでクライアントに手を出していたようで、ある女性を妊娠させてインターネットで叩かれて、追放されました。わたしも呆れて、こんなバカな人に振り回されてしまった自己嫌悪になりました。一切連絡を取っていません。

さて、離婚したということはわたしが子ども達を養わないといけないということですよね。ずっと専業主婦だったので、何をして稼ごう。所持金はほぼない。

とりあえず、実家の会社の営業で全国まわりました。別に身内だからと行って、優遇されたわけではなく本当に頑張ったら2ヶ月後には元夫の給料をすぐ抜いてしまったので、わたし勘違いしてお金稼ぐ能力ある!余裕で子ども達と生きていける!と思いました。 
離婚後8ヶ月ほど過ぎたある日、年末で仕事も休暇に入っていたのですが
会社の社長である母が脳出血で突然倒れてしまったのです。

倒れる数日前から、なんかイヤな気がして
家で休んでてと言いましたが、母は聞く耳持たず家を出て京都の南丹市という山奥で12月28日倒れました。大雪だし年末だし土曜日で倒れているのに受け入れてくれる病院はありません。
わたしは大阪から病院に連絡をし、死にかけてる母を運転して迎えに来いと言うのです。そんなん正気でおれんし事故るわ!
大阪の病院にいけと医者は言うので電話でケンカになりました。
どうにかこうにか子ども2人を連れて大雪の中、南丹市まで行き、まためんどくさいことに本人の宗教上の理由で、手術の前の輸血拒否をしないといけないのです。
本人は口もきけませんし、母の意志を代弁しました。医師とのやり取りにめちゃくちゃ時間が要した。輸血拒否をするだけで、手術をなかなかしてもらえない。
母の死を覚悟して、母の意志を強く訴えてやっと手術を認めてもらいました。あのとき年末の土曜日に手術を受けてくださったお医者様にお礼を申し上げます。
育児をしながら母を看病しました。
会社のお客さん達の顔が浮かび、なんとかして会社を維持しないと!!と同時に思いました。

わたしは経営に関しては全くの無知でした。長く顧問をしてくれている経営コンサル兼税理士さんいて、当時その先生は44歳でしたが母が会話ができないので、何でもかんでも聞いて教えてもらっていました。

分からないことだらけで、ある面談の約束の日に来られなくて急に連絡が取れなくなりました。
数日後、突然脳梗塞で突然倒れてそのまま亡くなってしまったと税理士事務所から連絡が入りました。

母も脳出血の後遺症で障害者になり会話が不可能、税理士の先生も亡くなりました。

役員だった女性に色々尋ねましたが、逃げるように役員から外れて音信不通になりました。

何が何やら分かりません。会社の登記簿やら履歴事項全部証明を出してみると、まさかのわたしは会社の役員として名前が載ってるじゃないですか!

わたしは、自分が役員に入った記憶はありません。印鑑も押してないし、サインもわたしの直筆ではない。株主総会も出席したことがない。

この亡くなった税理士さんが母と勝手にわたしの名前を書いていたことでした。

母は会話できない、税理士も死んでる。もう一人の役員は逃げた。頭が動かない。まずどこから手を付けたらいいの?

突然、訪れた責任者という重圧。
従業員は、この先どうするのですか?とやいやい聞いてくる。全国の顧客も怒ってる。株主からはどなられる。

どうするのですか!?
どうするのですかーーー!

あーーヤバイ。狂いそう。 
会社のルールさっぱりわからないー。

わたしは、従業員を説得しとりあえず全国回って顧客やら株主やら一人ひとり頭をさげて
今の会社の現状を伝えて謝りました。
同情してくれる人もいましたが、みんなからは怒られた。
内部はぐちゃぐちゃ。なんで、こうなるの。
そんな疑問なんて考える余地もありません。

走り回るだけ走り、足が像のように浮腫んでヒールが入らなくなり歩けなくなり
帰りの長距離バスが、梅田に着いたとき
バスを降りて、1人で地面に手をついてわんわん泣きました。

どうすればいいの。

たった1人で、会社と介護と子育て
右も左も分かりません。

北浜のネオンが、キラキラしすぎてて
わたしの途方に暮れてた姿が滑稽なくらい差がありました。

 
つづくよ

この記事が参加している募集

仕事について話そう

お金について考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?