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生き方としてのレトロ

未来は過去であり、逆もまた真である。

レトロという言葉

過去は今か?未来は今か?もしかして、未来は過去か?
なんだか考えるのも面倒くさい命題がここ数日頭の中にある。

それはレトロという言葉のせいだ。

レトロという言葉を耳したとき、皆さんはどのようなイメージを抱くだろう。たとえば、このレトロという言葉は、昭和レトロみたく一種の「古さ」を表す語句として普段使われているわけだが。

古さを感じる生活様式

さて、先日、レトロな生き方という表現を与えてくれた人がいた。
そして、いまの私の生き方はレトロだとその人は言う。

たしかに生活様式として、田舎の島で古民家で暮らすというのはレトロな生き方かもしれない。ただ私はパソコンもスマホも使うし、粉チーズたっぷりのナポリタンを日々愛食しているような人間でもない。
すなわち、生活様式と生き方というは似て非なるものだ。

生き方としてのレトロ

そのため、このとき、生き方というのはこれまで自分自身が人生における選択をいかなる理由で(もしくは理由もなく)行ってきたかという意味である。

この点、私の人生は消去法だなと思うことが多い。
つまり、選択に対して、理由があるようでないのだ。

学生時代、陸上を始めたのは野球部が中学校になかったから。
大学では観光学部に在籍したが、そこはもともと第一志望ではなかった。
今の島での生活も、会社を突然辞めざるを得ないという状況で、いつしかこうなった。
ただ陸上はなんだかんだ6年続けたし、観光学とやらは大学院でも専攻した。そして移住して早一年半が経とうとしている。

このようにを考えてみると消去法も悪くないかもななんて、自分でさえも思っている。そして、そのような私を彼はレトロと表現した。

「今」とレトロ

さて、レトロの本来的な意味はリバイバル再復活であるらしい。そのため、「今」という点から過去を遡り、その過去が「今」に影響を与えてこそレトロなのである。

だからこそ、レトロな生き方というのは何らかの古さを真似することではない。つまり、それは、過去が自分にもたらす影響を「今」の時点で常に認識することなのだ。

ともすると、冒頭の「過去は今か?未来は今か?もしかして、未来は過去か?」という問いかけは、私の場合、常に「今」の時点から思案されなければならない。
そのため、もし今の積み重ねが過去だというのなら、未来はこれから積み重ねられる今や過去の堆積物であるともいえる。このとき、未来は過去であり、逆もまた真である。

レトロな私は、過去・今・未来を同時に生きている。

ーーー

過去を振り返らないというような生き方がどうも苦手なので、たまにはレトロに立ち止まってのらりくらりやっていこうかなと思います。

というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。

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