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個体差を個人差って呼ばないで

私たちがヒトではなく、人であるならば。

★★★

私は時に個人差という言葉にどきりとする。
それはおおむね、私が何かの点において他人より劣っているときである。

無論、私自身が手を抜いていたり、明らかに努力していないというときは個人差に冷や汗を流すことはない。なぜならその場合は、私が意識的に手を抜いているからだ。だから、言い訳するつもりもない。

ただ時に全力で頑張っていても、他人より劣ってしまうことがある。というよりも、こちらの方が断然多い。そんなときに例えば、

「まぁ、結果には個人差があるから」

なんて言われようものなら、心の骨組みがすべてバキバキに折れていくような感がある。「え、私は努力してないってことですか?」と叫びたくもなるものだ。

私は確かに一人の人である。
他方でヒトとしての私は、26歳の男性という個体であるし、昔は小学2年生男児という個体でもあった。ヒトには生物である以上、残念ながら個体差が存在する。どこか差別的な響きもするが、農作物の成長、競走馬の筋肉量など生物に個体差はつきものだ。

例えば、私は特に学生時代の陸上競技で完膚なきまでに個体差を見せつけられたように思っている。すなわち、私なりの努力は、個体差には抗えないことが多々あった。

なぜあんなに練習をサボっている奴が私よりも足が速いのだ。
なぜ慎重派の私がけがをして、何のメンテナンスもしない奴がピンピン飛び跳ねているのだ。

当時はそれを自分の努力不足、つまり、個人差として受け止めていた。そのため、相手を逆恨みしたり、イライラするなんて日も少なくない。
ただ、今になって思えば、私はヒトという個体として、他の個体より身体のバネに劣りがあり、膝の骨が弱いということだけであったようにも思う

もちろん努力を否定したいわけではない。ただヒトにも個体差は残念ながら存在する。
この個体差をほかの言葉で表せば、「才能」であろう。才能の有無については、それぞれがそれぞれの場面で、自分の才能について思うところがあるはずだ。

だからこそ、反対に、各人の努力や頑張りみたいなものを個人差として軽く流してはいけないのだと私は思う。
つまり、ヒトとしての個体差に、人としての個人差で挑もうとした態度をたたえるべきだと私は思っている。

なぜなら、そうでなければ、私たちは他の生物たちと同じように、個体差による弱肉強食の世界で怯えて生きていかなければならないからだ。

確かに、物事に勝ち負けは存在する。いわば、結果を出すことがすべてといった風潮もある。
それでも、才能のような個体差に隠れてしまいがちな個人としての努力を見つめる必要があるのではないだろうか。
私たちがヒトではなく、人であるならば。

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言葉遊びと言ってしまえば、言葉遊びかもしれませんが、そんな小さな一言に傷ついたりしたりもするもので。

一年ほど前に、今回の記事と関連する記事を書いていました。
よければぜひ。

というわけで、本日はこれにて!
ご清読ありがとうございました!

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