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こんなやつもいるから大丈夫です、知らんけど

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日常の疑問や問題意識、抽象的な問いをあーでもない、こーでもないといいながら、簡潔で読みやすいエッセイにまとめます。 どうぞ、肩の力を抜いてお読みください。 きっと何か発見があり… もっと読む
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#生き方

分かり合えなくても、分かち合うことはできる ~「ねじれの位置」を目指して~

私とあなたは「分かり合う」ことができるだろうか。 私はこれまで、あなたと「分かり合いたい」「分かり合えるはずだ」と信じて生きてきた。きっとそれが、私にとっては、あなたという存在に関心を注ぎ続けるエネルギー源だったように思う。 しかし、25歳になろうかという頃、私はこの信念を覆すこととなる。 私は他人を理解できない私は他人を理解できない という事実を私は知らされる。発達障害。医学的な見地からの診断である。 その特徴の一つに、会話や言葉の文脈やニュアンス、また他人の顔色や

無趣味な私の趣味は喋ること

最近ようやく気がついた。 自分の趣味は喋ることなんだ、と。 いわゆる趣味がないと気づき始めて、早10年が経つ。つまり、現在29歳の私は、貴重な20代を無趣味で過ごしてしまった。 そして同時に趣味であったり、好きなことを明確に言葉にできる人に憧れを抱き続けてきた。 「休みがもっとあれば、やりたいこと山程ありますよ」 と先日飲みの席で友人は言った。好きなアーティストのライブ映像をみたり、本を読んだり、お気に入りのカフェに行ったり。事実、そう語る彼女が私にはひどく楽しそうに見

あの曲はいつも手をたたく

幸せなら手をたたこう。 そう言われて、叩ける人はどれほどいるのだろう。 また幸せの価値観は多様化しているというが、それに伴って幸せの絶対量も同時に増加しているのだろうか?どちらかというと、限りある絶対量を多様化した幸せで取り合っている気がしてならない。 では、幸せとは何か?と問われても答えはない。逆に言えば、答えが複数・人によると定義した時点で、幸せは多様化していくのだと思う。 手を叩け、とあの曲はいう。 ただ、どこかのポケットの中のビスケットが増えないように、幸せもま

自然は私に話しかけてこないけど

そういえば、自然に私が話しかけることはあっても、自然は私に話しかけてこない気がする。 私に農業を教えてくれているおじいさんは「自然が何を言うとるかを感じて、そんときそんときに必要なことをするんや」と私に言う。もはや仙人みたいなことを言うなと思ったら、実際、先日89歳になったらしい。 よくよく考えれば、昔の山水画に出てくる仙人も、当時の平均寿命を考えると傘寿すら迎えていなかったような気もしてくる。だとすれば、彼の方がよっぽど仙人らしい。 そんなモヤモヤを抱える私の前にも自然

言葉くらいでしか自分を表現できないくせに

言葉くらいでしか自分を表現できないくせに、言葉に苦しめられている。 言葉以外で勝負する人たちここ数年、私の人生には画家だとかイラストレーターだとかいう人たちが数多く現れる。そして、彼らの多くはこう口にするのだ。 今思い出せば、居酒屋で偶然知り合ったダンサーも同じようなことを言っていた。ダンスこそが私を表現する方法なのだと。 言葉なんて必要としなかったアイツトルコ留学時代のルームメイトのチェコ人はとにかくだらしない奴だった。英語はほとんど話せず、トルコ語については学ぶ気配

怒らないだけで、優しくはない

優しい人は怒って、叱る? 優しい人は意外と多いなぜだか分からないが、私の周りには「優しい」と評される人が多い。 テレビやラジオを視聴していても、しばしば「あの芸人さんって、裏ではすごく優しいんですよ」なんていうホンワカ暴露話もよく耳にするように思う。 もしかすると、この世界は、割と「優しい」人が多いのかもしれない。 最後に怒ったのはいつ?そんなことを思っていると、普段穏やかで優しい人が誰かに怒っているのをふと見かけた。もっと俗な言い方をすれば、キレていた。「この人、怒る

「自分らしく生きる」のは、生きづらい

そもそも、自分と自分らしさはイコールなのだろうか。 ーーー 「自分らしく生きる」のは、どこか生きづらい。 ただ世の中には自分らしく生きられる人もいるらしく、もっと言えば、その中には「誰しもが自分らしく生きられる世界」を作ろうとする人も多々いるようだ。 当の私はというと、そんな自分らしさを他人にも見出させようとする人と出会うと、少し距離を置きたくなる。なぜなら、自分らしさを見つけようとしている時点で、自分が自分らしさから離れていくような気がするからだ そもそも、自分と自分ら

目の前のクソ野郎もムスリムだったなら

あのクソ野郎と私は、優しさを少し訝しみながら生きていく。 「だって、ムスリムだからね」もう7年も前になるが、私がトルコに留学していたときのこと。トルコの人々は何かにつけて私を助けてくれたように思う。 一人でとぼとぼ広大な畑を歩いていると車に乗せてくれたり、道迷っていたら一緒に迷ってくれたり。思い出すと本当にその場面が沢山浮かんでくる。 いつの日だったか、ルームメイトのトルコ人に、 なんてふと口にした。すると、 と彼は言う。そうか、優しさは神様のおかげなのか。優しさと

非日常化した日常を取り戻すために「何もしない旅」に出よう

旅は非日常だとよく言うが、実際は、「我が子と夕方に遊ぶ」なんていう日常さえもが非日常化している。 ーーー 旅する。つまり、旅はするものらしい。 何かを見たり、どこかへ行ったり。旅ではまさしく to doが自分の中に形成される。旅はきっとこれからも「する」ものに変わりないのだろう。 と、宿に来たあるお客様が仰られた。その女性は、旦那様の来宿の意向に「まぁ、いっか」とついてきたとのこと。確かにウチの宿は文化遺産を利用した施設でもないし、宿が建つ島自体に名所があるというわけで

私が完璧じゃなくてもいい理由

GooleやAppleでさえ、アップデートするんだから。 ーーー 最近、スマホがOSをアップデートしますか?と毎日聞いてくる。 ただ来月にようやく光ネット回線が導入される我が家において、スマホの回線でそれをアップデートするというのは至難の業だ。そのため、光ネット回線が導入されるまでは、この問いかけを毎日無視しようと思っている。ごめんね、Android。 最近、パソコンもアップデートできますと申し出てきた。 私には何がどう変わるか分からないし、なんとなく時間がかかりそうなの

A. |私| =私、|-私| =私 ~絶対値が持つ魔法のような優しい事実~

二本の縦線を使って、常に私は私になれる。 数学の用語を借りる私は昔から数学が好きだった。 たぶん、それがどこか哲学的だったからだと思う。かの数学界の巨人・ピタゴラスも哲学者であったというのだから、私みたいな数学素人がそんな気になるのも許してほしい。 数学とは高校生の時に別れを告げたとはいえ、今でも数学の用語たちはライフパートナーである。頭がモヤモヤすると、数学の用語をお借りする。 例えば、「言葉を微分・積分する」。要は微積分宜しく言葉の次元を上げたり下げたりするということ

微炭酸な毎日を

少し前だが、宿のお客さんが缶チューハイを宿に置いていった。 「飲み切れなかったので、よければ飲んでくださいね」と。 その炭酸は、いつものそれに比べれば小さなものであった。 炭酸飲料・酒類に求めるのは、やはりあのシュワシュワ感。 私自身は、炭酸水をそのまま飲むのが好きだったりもする。他にも、焼酎割にハイボールと、そこでは概ね強炭酸の炭酸水を使うことが多い。 しかし、今考え直すと、強炭酸の炭酸水を買っている理由は特にはなかった。ただ漫然とスーパーに行ったときに「強」という文字

ナナメの昼過ぎ

#読書の秋2021 #ナナメの夕暮れ 『ナナメの夕暮れ』の読了後、カラオケルームの会計を済ませることにした。 私と異なる一冊オードリー・若林正恭さんの『ナナメの夕暮れ』をようやく読んだ。 もちろんとても今日深い内容であったのだけれど、他方で、 と思ったのも事実である。これまで彼のエッセイはすべて手に取ってきたのだが、「そうそう、これが言いたかった」ということが極めて多く、実際私の本棚の最前列に陳列してもいる。ただ『ナナメの夕暮れ』は「ちょっと自分とは違うかも」といった

幹に実はならない

幹に実はならない、そしてまた、幹なくして実はならない。 実る唐辛子努力が実るなんて表現があるが、まさに今、唐辛子・香川本鷹は実りの時期を迎えている。夏の暑さや水枯れに耐えながら、なんとか今、収穫を行えているというわけだ。つまり、彼らの努力は文字通り、実を結んだ。 香川本鷹の発芽(4月) 栽培初期から唐辛子をみつめていると、彼らは幾度となく枝を分化させ、今の姿に至っている。1本の幹を2つの枝に分化させ、次第には4、8、16・・・と成長していくわけだ。そして、その分岐点に1