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「自分らしく生きる」のは、生きづらい


そもそも、自分と自分らしさはイコールなのだろうか。

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「自分らしく生きる」のは、どこか生きづらい。
ただ世の中には自分らしく生きられる人もいるらしく、もっと言えば、その中には「誰しもが自分らしく生きられる世界」を作ろうとする人も多々いるようだ。
当の私はというと、そんな自分らしさを他人にも見出させようとする人と出会うと、少し距離を置きたくなる。なぜなら、自分らしさを見つけようとしている時点で、自分が自分らしさから離れていくような気がするからだ

そもそも、自分と自分らしさはイコールなのだろうか。
私からすれば、ノーだ。自分らしさはあくまで「らしさ」の範囲内で語られるべきだと私は思う。「らしさ」とは、例えば今や死語になったかもしれないが「男らしさ」「女らしさ」といった風に、「〇〇にふさわしい様子」を示す言葉だ。
そのため、自己の感情や行動に対して自分らしさという言葉を使うなら、それらが自分にとってふさわしいものでなくてはならない。

ただ私が思うに、私にとってふさわしい自分は、好きな自分でなかったりもする。たとえば、ちょっとしたミスで意気消沈してしまったり、やるべきことがあるのに昼までゴロゴロしてしまったり。
確かに、誰かに自慢したくなるような行動や他人の利益のために奔走する場面もなくはない。そして、きっとそうした私を見て、周囲の人間たちは「彼らしいよね」と言ってくれるのだろう。
しかし、意気消沈する私も、昼までごろ寝する私も、他でもない私なのだ。なんならそうした場面の方が多いのだから、この打たれ弱く怠惰な私こそが”自分らしい”と思える、つまり私の自分らしさとしてふさわしい気がするのだ。

私が昨今の「自分らしく生きる」という表現に対して少し忌避感を覚えるのは、そこに能動的な意味合いが強すぎるからだと思う。無論、やる気と主体性で満ち溢れ、それを謳歌できる自分を持っているからこそ、それらを「自分らしさ」と呼ぶ人もいるのだろう。

しかし、私は残念ながらそうではない。ただこれからの時代、自分らしく生きることを強要されるのであれば、こうした怠惰な私からは距離を置かねばならないのだろうか。

だとすれば、やはり、
「自分らしく生きる」のは、生きづらい。

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