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Episode 768 チェスと将棋の違いです。

数年前に「自虐の余裕が必要です。」という、「エスニックジョーク」を題材にした記事を書いたことがあります。
埋め込み記事の日付には「2021/02/23」とありますから、今から3年半ほど前のものです。

この記事は、良く言われる日本の「同調圧力の強さ」の成立をどのように考えるのか、それが私のような Autistic(自閉の民) に与える影響は、当然あるのだということを扱っているのですよ。

カサンドラ症候群に代表される「ASD×定型の関係性の悪さ」の問題は、「ASDの性格・性質という単体の問題だけではなく、定型のあなたの地域性に裏付けられた価値観の問題でもある」ということだと、私は思うのです。

note記事「自虐の余裕が必要です。」より

つまり私は、3年半前には既に「居住地域の価値観」が発達障害者の考え方や、発達障害者への考え方に影響を与える…ということに気が付いていたことになります。

そして、このハナシはレイ(@wagonthe3rd)さんが提唱する「日本社会はオーティスティックに親和的」という指摘を「なぜなぜ分析」の手法で解析してみる企画でも、大きなポイントになるだろうと思うのです。
今回はその企画の5回目、「島国的視点」を持った産業革命後進国である日本が、国を挙げて「カムフラージュ/擬態」を押し進める Autistic 的なライフハックを形成する理由の考察です。

このツイートは、先に示した「自虐の余裕が必要です。」を書いたころのものです。
ツイートの中には「日本は多様性を認める思想自体が育たなかった」と書きました…が、その一方で「日本社会はオーティスティックに親和的」とは、此は如何に?

この一見矛盾して見える部分が「和風 (日本的な) インクルージョン」という独自な「島国的視点」からの発想なのだと、私は思うのです。
と、言うのも…。

このポストは、ひと月ほど前…私が「日本社会はオーティスティックに親和的」に取り組むキッカケになったツリーの一部です。
このポストは以下のように続きます。

恐らく、和風文化の根本にはインクルージョンを志向する要素が含まれている…ただし、インクルージョンを志向するなら、その大枠を突き破る牙を封じなければなりません。
結果として、マイノリティは牙が使えないような教育を受けることになる。 日本人単一民族思想(思考)が導き出されるベースね。

アイヌや琉球に対する態度、朝鮮や台湾に対する侵略も構造は同じで、虐殺があったのは事実だけど、基本的には同化政策がとられるワケですよ。
歴史的事実で反省すべき点が多いのは当然として、ここでの話題はそれではなく、注目すべきはその受け継がれるインクルージョンを志向する姿勢の継続ね。

要するに、和風社会では伝統的に、波風が立たなければその存在は黙認されるのですよ。
同化政策を取りながらも同化された側の「対等」が許されたわけではない点も含め、問題点は多くある。
ただ、人権を盾にしたインクルーシブ論で戦わなければならない欧米諸国と、その質が同じかと問えば…否かな。

前回の記事「上書きされない特異です。」でも指摘したのですが、「大陸的視点」を作り出す原因のひとつとして、異宗教/異文化と隣接する緊張があり、異宗教/異文化と分かり合えない恐怖から、自らとは違う価値観を持つものを敵として認識し、攻撃して淘汰する考え方が育った…とお話ししたのです。

では、自分たちが対立する異宗教/異文化との関係性で優位または劣位に置かれた場合、対決以外にどのような方法で解決するのか…ですが。

大陸的視点の基本は「棲み分け」です。
つまり、私たちの「信じるもの」が有効な範囲が指定されるワケです。
優位な立場ほど「良い場所」を割り当てられ、劣位な立場ほど好立地から遠ざけられ、範囲も限定されるのね。
その一方で、島国的視点の基本は「懐柔」と言うことになるのでしょう。
埋め込みポストからの引用で示した通り、異質を内包してコントロールすることを思考するワケです。
その文化の差は、取った駒の再利用ができないチェスと、取った敵駒を自駒として再生できる将棋の差…と言ったらわかりやすいでしょうかね。

自ら信じるものを曲げず、相いれない価値観とは対決 (または棲み分け) する大陸的視点とは異なり、島国的視点は、相いれない価値観を内包して、理解できる部分を都合良く解釈して馴染ませることに抵抗感が薄い…。
つまりね、和風文化は「置かれた立場を受け入れ、その現状において、自らの能力を可能な限り発揮しようとする性質」を持つワケです。
その思考法の根底にあるのが、ぱっと見では無宗教に見える「日本神道をベースにした日本的多宗教混在型の宗教観」です。

何れにしても、それが「私の生活エリア」に溶けていて、よく知らない違う価値観と混ざり合わずに生活エリアを共有している…ワケではないのでしょう。

note記事「溶け込む感覚を知るのです。」より

この異文化をサラリと受け入れて自文化に溶かしてしまう感覚は、大陸的視点には殆ど存在しません。
この「混ざり合い溶け込む感覚」の島国的視点には、そもそも異質に対するインクルージョンの感覚を備えている一方で、溶けて混ざり合う結果として、出来上がった色合いが「単色」になりやすい、即ち「同調性の強さ」と言う多様性の無さを作り出すのだろう…と、私は思ったのです。

この「奇妙な異文化許容」は「完全な異文化理解」とは違うモノ…であるにもかかわらず、異文化を受け入れる姿勢に、真意/核心を理解しないまま現象だけを真似る「カモフラージュ/擬態」の影を見ることになる…とすれば、そこに Autistic(自閉の民) 的なライフハックの相似形を見ることになる…と。

もちろんコレは私の思う「仮説」で、コレを正論にするのなら、学術的に正しいかを全て確認する必要があります。
ただ…私は Autistic が地域文化の影響を受ける、そして海外に住まわれている方(レイ[@wagonthe3rd]さん)の、「海外の感覚が和風の感覚よりも Autistic に厳しい(≒日本社会はオーティスティックに親和的)」という体感としての意見を具体的に考えると、どうしてもこのあたりに結論が落ち着きそうなのです。

そして次回、大陸的視点が生み出す「盾としての人権と混ざらないインクルージョン」のハナシへつづきます。

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