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Episode 310 理由が後付けされるのです。

Twitterで、こんなツイートのツリーを見ました。

夫と話合いが出来るようになって「擦り合わせ」をしてるのだけど、
私はAと思うよと言うと、夫はそれはBという事なんだねと解釈したりする。
噛み砕いてAだよって話してわかったかと思っても、やっぱり最後にBになっちゃうという。
思い込み?自分の尺度でしか考えられない?わかり合えない( ;∀;)
(中略)
とにかく私の意見をねじ曲げられたり、夫すぎる解釈にされる違和感。
本人それで間違いないわかった!ってなってる。
あ!算数でいうところの答えはまぁ合ってるのだけど、プロセスの部分が違う感じ?
生活において、プロセスの部分は大切だから私は答えよりプロセスをわかって欲しかったのよね。
(中略)
子どもが椅子の上で飛び跳ねるのはダメだって話で
A「怪我する可能性あるしマナー的にも」
B「家具が傷つくから」
結論「ダメだ」みたいな。
子どもに伝える時にAの理由で伝えたいと話してるのに、Bで伝えられちゃうみたいな。
Aが届かない。
(中略)
結果言いたい事はそれなんだけど、そこには理由があって、そこを理解して欲しいって話。
伝わってそうで、やっぱり夫の解釈にしかならない。


パートナー側から感じるASDの不思議なイメージなんでしょうね…これ。
おそらく…これはASDの方から見たら、先日ブログ記事にした「キャッチボールの話」です

パートナーが投げたボールを見ているのは、あくまでもASDである私の視点だということ。
到達する結論のパートナー側の答えを予測して、その答えになるように私自身の理論を組み立てること…だと思います。

パートナー側から見て違和感を感じるポイントは、きっと答えありきの感覚でしょうか…。
相手の話をボールを捕るように受けるという感覚は、答えを受ける感覚に近いのだと思います。
「ピッチャー振りかぶって、投げた、ストライク!」ぐらいの渾身の全力投球を受けるくらいの感覚ですかね。
そこから「結論はダメ」を感じ取るワケです。
その渾身のストライクの「結論はダメ」を理解するために「どういうこと?」を脳内で組みたてるワケですよ。
パートナーの思考は「理由→結論」なのに対して、私の思考は「結論→理由」になってしまう。
あなたが「ダメ」と結論付けたのだから、「ダメ」という結論になる理由を探す…ということです。

私はASDの人って「答え探し」をする傾向があると思うのです
これはきっと、子どものころからの経験値の問題だと私は思います。
定型の人と同じ思考回路で考えられないのは、迂回路という話で説明した通りです
インプットとアウトプットの間にはブラックボックスがあって、プロセスと言う理論が挟まっていないことが多々あるのです。
どういう理由か分からないけれど「その設問に対してはこの答え」というプロセスを度外視した思考回路が存在するのです。
これは、ASDの子どもが生きていくために身に付けた技術だと私は思っています。
だって、定型の人と同じ道を通ってものごとを考えられないことがあるのですもの。
それでも社会で生きていくためには、理解できない中身を抜いて、設問と答えを強引に結び付けないと…。

大人になって、今度は「抜いた中身が重要だ」と言われるわけです。
設問に対して答えがあって、それに理由を後付けしなければならない…。
それが、大好きな人の出した答えであったら、その答えに寄り添うように理由を考えたいじゃないですか。

自分自身で考えて行動するのなら、私の理論で考えたすじ道で答えを出すので「理論→結論」の発想が出来ます。
でも「摺り合わせる」とは、相手がいて、相手の考え方があって、その気持ちを汲んで…が必要なわけでして。

「気持ちを汲む」が難しいとは、キャッチボールのボールを捕る視点が自分のフィルタを通るという話であって、その考え方が「答えありき」になりがちなのは、ASD者が生きていくために編み出した知恵によるものとしたら…。

そしてまた、ひとりで結論を出して、あなたを悲しませてしまうのです。
私は寄り添おうとする努力の方向を理解していても実行できなくて、悲しむあなたを見て凹むのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/5/21

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