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Episode 663 同じで同じじゃありません。

脳内動画ファイルを生成するには「てにをは」が重要なのだ…ということに気がついたのです。

今回も2月12日に行った、あずさ(@41azusayumi)さんとのスペースについてです。
前回は人権やニューロダイバーシティについての考え方と、その話題の範囲の広さへの認識の足りなさから発生してしまった問題についてのお話しでした。

この件に関しては、あずささん側からの反省と意見も記事にアップされているので、併せてご一読いただけるとより理解が深まると思います。

それでですね、その人権とニューロダイバーシティの話題から「どうやって人権というものを理解していくのか」ということを説明するのに「サボテンをどのように育てるのか」という例え話になったのです。

「札幌の屋外ではサボテンは育たないので、まず温室を用意してからサボテンを育てたほうが、サボテンは順調に育ちますよね」という話です。温室が問題意識、サボテンが人権。

「(余裕がある場合に関しては)人権を前面に押し出して交渉を迫るまえに、情報を共有したり、実績を積んだりして、問題意識を共有したほうが話は早いですよね」

ホワイトボード上のサボテンマグネット」より

その一方で、余裕がなければ正しく強い正論である「人権」を前面に押し出す選択も当然あることが、このハナシの前提になるのですけどね。

ここからハナシはあずささんの言語優位でありながら言語で物事を考えていない…という認知と記憶、そこから言葉を通した表現についての話題に移ります。
(人権とニューロダイバーシティの問題については、あずささんの記事と同じ内容になるので割愛します。)
実は私、あずささんが言語優位と言いながら映像で考えている…という事実を、知ってました。
半年ほど前のスペース対談でも話題になってましたから。

あずささんはnote記事、「ホワイトボード上のサボテンマグネット」の中で、自らの認知について次のように表現します。

わたしの話し方には、ほぼほぼ、助詞がありません。てにをは、ですね。ない。これは主義主張の問題ではなく、文字数の節約でもなく、気がつくと抜けている。助詞って、サボテンマグネットの方向なんですよね。こっちに動かしますよ、という方向。そんなものはない。マグネットの軌跡としてはあるけど、ホワイトボードの上にはない。残らない。絶対ないとは言わないけど、必須ではない。よって、文法的に必要最低限の助詞以外は、抜ける。

その一方で「私は」と言うと…。
あずささん(恐らく「言語抽象型認知」)と違い視覚優位で、「三次元(3D)映像型認知」という動画で認知するタイプと…いうのは、「違いは発見を生むのです。」という記事で指摘した通りでして、私の認知や記憶は「ビデオ映像(≒動画)」なのですよ。
アイコン化されたホワイトボード上のマグネットでは、ない。
ここで重要な役割を果たすのが助詞…即ち「てにをは」です。

あずささんが「必須ではない」といった「てにをは」は、私にとって「必須です」。
その理由は、ビデオ映像(≒動画)には「視点」という大きな要素が存在するからです。
「てにをは」がないと、ビデオ映像(≒動画)にはならないのですよ。

○「が」どうした。
○「に」どうした。
○「を」どうした。
○「は」どうした。

「○」と「何かした」は共通でも、そのニュアンスが違うことを示す…が「てにをは」の役目でして、あずささんはその「てにをは」が抜けても流れから意味合いを掴み取るワケですね。
私は、それを「ビデオ映像(≒動画)」に起こして認知ですから、「○」がした行為は何か…を、「てにをは」が指示しているワケですよね。
だから、脳内ビデオ映像(≒動画)撮影者の私にとって、行為者の行動を映像化(動画化)するために行為を具体化する「てにをは」がないと困るのです。

以前、読書が好きか否か…という記事を、認知特性上の視点から書いたがあります。
あの時に感じていた「文字がスルスルと入ってくる」ことへの羨望って、脳内イメージの作り方の癖に影響されているのかも?

あなた、わたし、話した。
あなたが、わたしに、話した。
映像を作るなら後者が必要ですが、話した事実だけなら前者で十分ですよね。

極めてシンプルに言えば、前者があずささんで、後者が私です。
映像を作るには、その助詞を飛ばすことが困難だから、「一字一句」文字を拾うことが必要になるワケです。
一方で、話した事実だけを情報として入手できれば前者で十分…必要ではない文字を拾わずに必要な情報を入手するというのも、あるワケだよね。

結果としてスペースでの話は、映像が苦手なあずささんが「映像が苦手な理由」と、文字が苦手な私が「文字が苦手な理由」を「てにをは」を挟んで共有することになる…という発見がありました。

このハナシはASDや発達障害に関係することではないかもしれません…が、同じ特性をもつ違う認知傾向を示す人の、こんな違いとこんな共通点という意味では大きな意味があるのでしょう。
ASDはASDというワンパタンの存在ではない…と、改めてスペクトラムを感じるのです。

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