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Episode 602 拒読の裏の過読です。

何度も申し上げている通り、私の書く記事は「私の主観」であって、一般論でも科学的根拠に裏付けされているものでもありません。
今回の記事も、ハッキリと「仮説である」と、最初に書いておきます…さて。

「ハイパーレクシア」という言葉を知っていますか?
日本語では「過読症」と訳されるその言葉を Wikipedia では「読み書きの能力が一般の子供より突出しており、低年齢で文字や数字や記号を覚える発達特性」と紹介しています。
この真逆の現象として報告されているのが「ディスレクシア」です。
「難読症/失読症」と呼ばれるその現象は、年齢や学齢に相応な「文字の読み書き」に問題が出るため発見されやすく、学習障害の一因になるとされています。

一般的に「読書ができる」のは「お利口さん」で「良い子」とされるので、「ハイパーレクシア」は見過ごされがちなのだと思います。
でも、最近になって「はてさて、本当に『ハイパーレクシア』を見逃して良いのだろうか」…なんて考えたのですよ。
と、いうのも…。

私は文字が苦手な子どもでした。
そのことについては、過去に記事にしたことがあるのです。

文字は読めても、言葉の理解ができない。
音と文字は繋がっているけれど、文字と意味が繋がっていないのです。

記事の中でそう指摘した私は、文字が嫌いで映像に逃げたのです。
映像は、私が苦手な文字を分解して音声と動きに変換してくれる救世主だったワケです。

そうは言っても「日常生活で文字を拒否する」は、いろいろと問題があるのですよ。
だから私は文字を音に変換するライフハックを編み出します。
音声を映像に変換することは可能でしたからね。

文字(文章)を理解するのに、文字を音に変換して、さらに音を映像に変換することで状況の理解をする…これを私は「文字が嫌いだから」と表現したのですよ。
それを一変させるハナシが飛んできたのはつい最近のことです。

ASDである読書家のAさんがポロリと発した言葉は衝撃的でした。

読書でしていることは、場面の再構成…脳内で映像に仕立て上げること。

つまりコレはね、私の「音声に変換する作業」の部分をすっ飛ばして文字(文章)を映像に変換するということで、映像化という「なされた結果」は同じである可能性が示唆された…ということです。

このハナシは、小説の脳内ドラマ化という作業が、自らが映像編集者(映画監督)になる点でAさんと私が共通していることを意味します。
このツイートは以下のように続きます。

あなたと私の関係性を理解する力の弱さは、「一人称の私」の確立に難があった点に集約されるかも知れません。 
物語の理解には問題はない…でも、主人公の私と、その相方のあなたの視点を切り替えているワケではないから、自分がフィールドに立った時に困る…かな。

Aさんの指摘した通り、「読書でしていることは、場面の再構成…脳内で映像に仕立て上げること。」であれば、その作業は明らかに第三者目線であり、当事者視点の感情移入ではない…ということになるのですよ。

その逆パタンもある。
著者の意図するストーリーを論理的に追うことに、登場人物の動きの細部は関係ないのなら、ドラマや映画の演出や役者のクセに左右される部分は余計な情報になる。 
視覚情報優位性と文字情報優位性という認知特性のクセが過読/拒読に影を落とす…は、考えられるラインかも。

つまりね、文字から意味を拾えず音声変換する作業を挟む私のようなタイプのASD的なディスレクシアの場合、「普通なら出来ることが出来ない」から目に付きやすいワケです。
「本を読まずにテレビばっかり!」
と言われ続けた私は、「文字に弱い」を指摘され続けたから、自分と映像との相性の良さを実感として持てた可能性はあります。
でも、ASD的なハイパーレクシアの場合は、文字を脳内映像にダイレクトに展開させるから、物理的な映像情報を「余計な情報」として嫌う可能性がある…とすれば、自分と映像との相性の良さを実感出来ていないことが多いのではないかと思ったのです。
小説が原作のマンガやアニメ・映画やドラマって、自分のイメージと違ってガッカリすることって経験ありませんかね?
それと同じような感覚で、自分の脳内映像と誰かの「感性」を挟んだ映像との差を自分のイメージを否定するものとして拒否するとすれば、ハイパーレクシアの人と映像との相性の良さを実感するのは難しくないか…と思うのです。

冒頭で話した「読書ができる、お利口で良い子」に立ち返った時、一人称の視点に不安があるASD的なハイパーレクシアである場合、著者の視点に立つことで物語を理解して、意味を理解しているが故にテストの網にもかからず、それ故にドラマ的な場面再構成がデフォルトになっていることは、自分も含めて誰にも気づかれない「秘密」になる可能性はないか?

もしかしたら、「本が好き」という一目置かれるキャラが、ASDの核心的部分の理解のカムフラージュと機能しているのかもしれない…なんて思いが、私の頭の中で渦巻いているのです。

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