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わざとびしょ濡れになる「雨水浴」がしたい

朝からじめじめとした天気だった。細い糸のような雨が傘の外側から平気な顔をして服を濡らしていく。水たまりができるほどではないけれど、油断したらびしょ濡れになりそうな雨だった。

図書館へ向かう道すがら、傘をささずに走る子供の姿が見えた。私も傘を持つのが嫌な子供だったな、と微笑んでいると反対側から傘を持たないおじいさんがやってきた。傘嫌いというのは一生治らないのかもしれない。

予約していた『medium 霊媒探偵城塚翡翠』をカバンの中に入れ、図書館のすぐ脇にある誰もいない公園を通り抜けると、懐かしい思い出が蘇った。

高校生のころ、私たちは生粋のアホだった。毎日のように意味のないことに笑いの種を見出しては、皆でその花を咲かせることに躍起になっていた。全くなんの生産性もない行為だったが、今となってはそれも青春という便利な言葉で片付けられるのかもしれない。

そんなある日、誰からともなく「雨の日にびしょ濡れになって風邪引こうぜ」という案が出た。小学校低学年の子供が思いつきそうな発想である。そんな安易な案を17歳の私たちは真剣に面白いと感じ(アホだなぁ)、そして実際にやってのけた。

決行当日、天気は理想的なまでの土砂降りだった。さっそくいつもたまっていた公園に集合し、着の身着のままで鬼ごっこなどをして遊ぶことにした。普段であれば高校生が鬼ごっこに興じているなどという状況はいささか失笑を誘うものであるが、その日は土砂降りだったため誰に見られることもなかった。

制服のまま濡れることに最初は抵抗があった。しかし、下着まで濡れだしてもはや取り返しのつかないところまでいくと、むしろ爽快感があった。私たちは代わりに学校でうまくやっていけない悩みや複雑な家庭事情などを脱ぎ捨て、幼い子供のように笑ってはしゃいだ。

土砂降りの中で数時間ほど遊んでいると、何もかもが浄化されたような気持ちになり、私たちは思い思いに叫んだ。雨の音でその叫び声がかき消される。それが楽しくて何度も何度も叫んだ。

あたりが暗くなってきたころ、ようやく解散することになった。冷静になってみると、全員が滝に打たれたような濡れ具合で思わず笑ってしまう。「明日風邪引くかな?」と誰かが言った。「どうかな」と誰かが返した。空はまだまだ涙を流し足りないようで、雨脚は一向に弱まる気配を見せなかった。

翌日、結局誰も風邪を引かなかった。むしろ普段より元気なくらいだった。「あれだけ濡れてなんで風邪引かないんだよ」と笑い合った。そしてまた別の無意味な遊びを発見してはそれに興じた。

あれから時は流れ、もう30歳になってしまった。これだけ時間がすぎると、さすがにあの頃とはだいぶ変わったと自分でもわかる。いくばくか計算のできる大人になったし、翌日のことなんて考えずに無茶をするなんて馬鹿げた行為をすることはなくなった。

だけど、時々自分が空っぽな存在に思えるようにもなった。常に未来のことばかり考え、今現在に集中できていないのではないか。今を生きていないのならば、果たして私は一体どこを生きているのだろう。

そんなモヤモヤが頭に浮かぶと、雨ですべてを洗い流したくなる。あの頃のように、無邪気に雨に打たれて打たれて、びしょびしょになっても打たれ続けて。明日の体調なんてどうでもいい。洗濯が面倒だとかそんなこともどうでもいい。ただ楽しいと思えることに身を任せて、それだけに熱狂したい。

どしゃぶりの雨にあえて打たれることを私は「雨水浴」と呼んでいたが、今日ひさびさに10数年ぶりの雨水浴をしたいと思った。ちょうど雨脚が強くなってきた。今さしている傘を折りたためば、また同じことができる。お金も手間もかからない。簡単なことだ。

でも、私が傘を閉じることはなかった。明日は仕事だし、お気に入りのTシャツを着ている。また今度にしよう。そうして何十回目かの先延ばしをした。もしかしたら、私はこの先の人生で再び雨水浴をすることはないのかもしれない。

ただ雨に打たれるというだけのことを、私はできない大人になってしまった。常識や保身や計算やらの重たい荷物を抱え、ちっとも身軽ではいられなくなってしまったのだ。

先ほどすれ違った傘を持たない少年とおじいさんを思い出す。彼らはなぜか堂々とした表情をしていた。羨ましいともバカバカしいとも思う。

傘を捨てきれない私は、今日もモヤモヤと悩みを抱え続ける。いつもより頼りなく揺れる傘からは、なにかを訴えかけるような雨音だけが響き続けていた。



大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。