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「自分が小さな存在と感じる」は、なぜネガティブな感情をもつ表現なのか

「『自分が小さな存在だと感じる』という表現がネガティブな意味になり得るのは、『自分は大きな存在であるべき』という前提があるときのみである」。そんな小難しいことを考えていたら、すごく可愛いたとえ話を思いきました。

「小さい存在」という表現に込められた感情

例えば「幼児は、大人と比べて小さい」とか「宇宙の大きさを想像するとき、人は本当に小さな存在に過ぎない」みたいな文章で、人に対して「小さい」と表現を使うとき、それは事実の直接的/比喩的な描写であり、それ自体にネガティブな意味はありません。

でも「自分が小さな存在だと感じる」のように、「小さい」を自分に対して使う時は、大抵は挫折などを経験して無力感に苛まれている時であり、ネガティブな表現になる場合が多いです。なぜでしょうか。それは、前提として「自分は大きい存在であるべきだ」という考えがあるからだと思います。

「自分はできるはずだし、しっかりしなければならないと思っていた。なのにこんな悪い結果になってしまった」という理想と現実のギャップに対するショックであり、言い換えれば、「自分は大きい者でなければならないと思っていたのに、小さな者であるということが分かった」から、悲しいのです。

ここで、かわいいたとえ話です。

ママのために張り切った小学生のたとえ

ある小学生の子が「母の日に、ママのために自分一人で晩ご飯を作る!」と申し出ました。「自分はできる子。料理だっていつも手伝ってるし、きっとできるはず」と思っていました。

しかし実際にやり始めてみると、思ったより大変です。野菜の皮剥くのとかすごい大変で、かなり疲れます。予想よりかなり時間がかかり、だんだん焦ってきます。焦ったせいでピーラーで手を切って、痛いです。見かねたパパ(料理できる)が「手伝おうか?」と声をかけても「大丈夫..!」と断ります。自分の力で頑張りたいんです。

でもその後も苦戦は続き、途中から殆どパニックになっちゃって、ついにぐずり始めて、手は止まります。ひとしきり泣いて、落ち着いてから「パパ手伝って..」と言います。パパはもちろん喜んで手伝います。テキパキと一緒に料理を進めて、美味しい料理が出来上がります。ママも大喜びです。

この子はパニック状態のとき、「自分は無力だ.. 小さい存在だ」と感じたから、泣いてたようです。ああ超かわいい。そんなの思わなくてもいいよ!だって、小さい子どもなんだから

本当は、無理に自分一人でやろうとしないで、初めからパパに手伝ってもらえば良かったんだよ。もちろんパパだって嫌がりません。その方が、疲れなかったし、スピードも速かったし、きっと手も切らなかったよ。それに料理のクオリティも高くなるんだから。でもかわいいからゆるす!

(たとえ話おわり)

聖書が教える、「小さな者であること」

聖書でも、このようなことが語られていると感じています

この本では「へりくだること、自分の弱さを認めること」が何度も命令されており、同時に傲慢になることやたかぶること(=自分はすごいし、能力があると思うこと)は、徹底的に戒められます。

なぜそこまで強調されるのか。それは、「人は神に頼る必要があるが、自分は強いと思っている人は神に頼らないから」です。「私はデキる。だから神なんかいらん、全部自分の力でやる。神の必要性など感じない」となります。しかし聖書が教える「人がどのような者としてデザインされたか」を鑑みると、神に頼らないのは、良い選択とは言えません。

パパに頼る子供のように、神に頼る

聖書によると、人は神に頼ることで最高のパフォーマンスを発揮できるように造られています。神に頼れば、スピードが速いし、疲れないし、危機を回避できるし、いいクオリティの仕事ができるのです。子どもが、初めからパパに頼って料理したほうがいいのと同じですね。

そして神は人を助けたい気持ち満々で、子どもが料理するのを見ているパパのように、いつでも隣でスタンバイしているのです。子どもがパパの助けを得るために必要なのは「手伝おうか?」という申し出に対して「ありがとう!うん、お願い」と言うことだけです。神に対しても同じです。

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神っていうと仰々しく聞こえるけど、実際にはパパみたいに親しみやすい存在なんです。いつでも頼って大丈夫です!

人はそもそも、大きな存在か?

聖書は、人は何才になったって、子どものように小さく無力な存在だと教えてくれます。この世界の殆どの事象に対して無力だし、セルフコントロールができません。でも人は「自分は有能だ、できる」と信じたい性質を持っているので、どうしたって自分の力に頼ろうとするのです。そして、何かうまくいかないことがあるとパニックになり、自分が小さい存在だと思う。

でも、最初から「自分は小さい者です。神の助けがないと大したことはできません」と認め、神の助けを求めるときに、非常に安定した形で、良い仕事ができるんです。そしてたとえ問題があっても、そんなにショックを受ける必要はありません。だって、もともと小さな存在なんですから。

自戒と、今後への意気込み

僕も自分のエゴが邪魔をして、神の力に頼ることを忘れ、自分の力に頼ってしまいます。そういう時は大抵疲れ、時間がかかり、結果のクオリティも微妙です。でも神に頼ると全然そうではないのです。疲れないし、速いし、クオリティが高い。

しかし、そのことを知ってるにも関わらず自分の力に頼ってしまって、パニクってしまいます。でもそんな僕のことも、神様は「かわいいなぁ。頼ればいいのに!」と思ってくれてるのかな、と思います(ちょっと恥ずかしい)。

「自分を弱いものとみなすとき、神の力に頼ることができる。だから私は、弱い時にこそ強い」。そのことを忘れず、生きていきたいと改めて思いました。

聖書の言葉

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「キリストの力が私をおおうために、自分の弱さを誇る」。震えます。

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初代教会の大伝道者、パウロの言葉です。彼の気持ちが、痛いほどわかります。心で願っているあらゆる良いことが、実行できない。分裂が起きているのです。彼のような謙遜な自己認識を持ち、 「弱さのうちに働く神の力」に頼って生きていきたいと願うのです。

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へりくだるものを高められるというのは、へりくだることによって、主の力が働く空間が生まれるからなのです。たかぶる者には、主の力が働かれる余地がない。もっとよく生きるために、もっとへりくだろう。そう思いました。

(おまけ) 僕のロールモデルの紹介

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17世期のカトリックの修道士、Nicolas Hermanです。ブラザー・ローレンス(日本名:御復活のラウレンシオ)という名前で知られています。彼は「日常のあらゆる行為において神を見、あらゆる行いを神とともに行った人」として知られる人です。彼について書かれた「神の現存の体験」という本の一節をいくつか紹介します。

彼の信仰は、「彼が見る一切のもの、到来する一切のこと」の中に神を透かして見ていた。
「日常のあらゆる用務に際して、彼は神に向かって、いかにも愛らしい心やすさで『これはあなたがなさるはずのことです』と申し上げながら、神に手伝わせるのが常であった。その後、彼は全てが果たされ、しかもよく果たされているのを認めた」
「この人は、 1つ1つの行動に際して、主にそれを果たしてくださるよう願って、こう言った。『神よ、もしあなたがそれをさせてくださらないなら、私にはできません』。そうすると、神は彼に力を、それも豊かにお与えになった。」
「彼は、神の御業に協力することをやめない一方、神によって働かされるに任せる方が、自分自身からあまりに働こうとするよりも、神の道具としての私たちの役割に一層ふさわしいということを思い出させてくれる」

彼のように、神の現存を感じ、神に助けていただき、全てを神のために行う日々を生きていく人でありたいと願います。


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