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この世に「自分で手に入れたもの」など1つもないはずだ

僕は台湾中文(中国語)をある程度話せるのですが、この能力は自分の力で得たものではありません。

なぜ中文が話せるか

僕は ①台湾人の女性と知り合い恋をし結婚して、②お義父さんと直接コミュニケーションをとりたいと思い、③独学で勉強をはじめ、妻や在日台湾人の友人たちとおしゃべりすることで、この能力を手に入れました。④言語が好きだったので、楽しく学べました。

それぞれの要素について考察してみる

①妻とは、僕が2013年に参加した国際的な教会のイベントで出会いました。
→ 僕は彼に出会うことを選んでいません。イベントに参加しても知り合わなかった人もたくさんいますが、妻とは知り合いました。また僕や彼女がそのイベントに参加するまでにも様々な経緯があり、参加しない可能性はどれだけでもありました。

②お義父さんと直接コミュニケーションをとりたいと思ったのは、お義父さんが最初かなり恐かったからです。笑
→ 彼は昔日系企業で働いており、仕事中毒な日本人の同僚(昭和の企業戦士たち)の印象が凄く強かったので、娘が日本人と付き合うのは心配だったのです。直接話して仲良くならないと結婚できないと本気で思い、モチベーションに火がつきました。そんな方の娘と恋をしたのは偶然ですw

③勉強好き・おしゃべり好きになったのは、人口1,000人程度の村で生まれ育ったことが関係していると思います(田舎にはあまり情報や人の多様性がなかったので、反動で好奇心旺盛になり、勉強や人との会話を楽しむようになりました)。
→ 僕はあの田舎で生まれることを選んでいません。また、田舎出身でも好奇心旺盛にならない人もいますが、両親が田舎の外に目を向ける人だったので、そうなりました。当然、僕はあの両親の元に生まれることを選んでいません。

④言語が好きになったのは、留学をしていた姉達や友人達の影響で国際志向になったからです。
→ 僕は姉達の弟になることや、その友人達と出会うことを選んでいません。また、姉達が留学をしなかったという可能性も十分にありました。友人達もそうでしょう。

その選択をした自分になることを選んでいない

このように、僕の人生の様々な出来事が、僕の中文の能力につながっています。僕の選択は中文能力の獲得に影響を与えましたが、「その選択をした自分になること」を自分で選んだわけではありません。

だとすれば、中文の能力を「自分の力で手に入れた」と言うのは適切ではないし、おこがましいとさえ思います。それはまるで、善意の投資家からたまたま投資を受けてビジネスをし、様々な幸運に助けられながら成功した人が「私は自分の力で成功した!」と言うようなものです。

全ては「与えられたもの」なんじゃないか

言語能力に限らず、私たちの持つ能力や機会の全てが、出自・経験・出会う人々といった、コントロール不可能な可変要素によって出来上がっています。だから、おそらく我々の人生には、純粋に「自分の力で手に入れたもの」など、ひとつもありません。自分の選択は確かに人生を形作りますが、その選択をする自分は、自分の選択によって形作られるわけではないのです。

だから、「我々が持つ能力や機会は全て与えられたもの(=賜物)」だという聖書の教えには説得力があると感じます。能力も機会も、それを得るために通った全ての過程も、あらゆる選択をするという決断をした自分の意思さえも、全て与えられたものであるということです。

与えられたものならどう使うべきか

もし我々の能力や機会が与えられたものなのであれば、我々はそれを与えた人の目的に従って使うべきです。善意の投資家が僕に「このお金でビジネスをして社会に貢献しなさい」と言ってお金を渡したなら、僕はその投資家の目的のためにそのお金を使うべきです。遊んだり欲しい物を買うなど、自分の目的のために使うべきではありません。

なんの目的のために与えられたのか

では人に能力や機会を与える存在が、それを与える目的はなにか。それは与えられた人が、一方的にそれらのものが与えられたという「恵み」を互いに分かち合うこと、そして互いに仕え合い、助け合うことです

感謝なことに、僕にも様々な能力や機会が与えられています。僕もついつい「これらは自分が頑張って手に入れたんだ!」と考えがちですが、なんとか視点を修正できるよう努めています。そして、与えられたものを自分のためではなく人のためだけに使いたいと願い、具体的な方法を考え続けたいと思います。

プレゼンテーション1

自分の持っているものを気前よく与えることのできる人は、気前よく与えられたということをよく理解している人であり、寛容に愛せる人は、寛容に愛してもらったということをよく理解している人なんだと思います。

みなさんには、どんな能力や機会が与えられていますか?それもって人を助け、仕えるというのは、具体的にどういうことですか? みなさんがそれを実行することで、みなさんにその能力と機会を与えられた方の目的が達成されることを祈ります!

聖書の言葉

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これが、人に賜物を与える存在が、それを与える目的です。与えられた者には、与えた方の意思を最大限尊重する義務があります。

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先ほどと同じ箇所の、別の翻訳です。我々はこの能力や機会の管理者である。つまり、これらのものは我々を信頼し、任されている。我々は、管理者としての務めを果たすべきです。

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他者に与える分が多いほど、自分に与えられる分が多くなります。この与えられた分をさらに人に与えれば、さらに与えられます。このようないい連鎖に入ることができれば、どんなことだってできると思うのです。


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