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中村哲さんを思い、クリスマスを思う

12月は初旬からずっとクリスマスのことを考えているのだけど、ちょうどそんな時に、尊敬する中村哲先生がアフガニスタンで銃撃されて亡くなってから2年が経つというニュースを目にした。

自分を犠牲にして人を助ける人

彼のこと、またクリスマスのことを考えながら、世の中には中村先生のように、「他人を助けるために、自分が苦しむことを選ぶ人」が、たくさんいるということに気がついた。

例えば、いじめられっ子を庇おうとして、いじめられる子。同僚のミスをカバーするために、大量の仕事を引き受ける人。貧困で苦しむ人たちを助けるために、環境の厳しい地で活動する国際協力団体の人々。

自己顕示のためにこれらをやる人もいるけど、「相手を守りたい、助けたい」という純粋な気持ちに突き動かされて、行う人もいる。このような人たちの原動力は、愛だと思う。

彼は、キリスト教への信仰を持っていた人でした。信仰についてそこまで多くを語らなかった人のようですが、彼の人生は、苦しむものを助けるために自分を犠牲にされた、キリストを彷彿とさせます。活動の原動力となっていたのは、キリスト教への信仰だったのかもしれません。

「誰かのために死ねる」という愛

昔、NHKのドキュメンタリーで、難病で苦しむ子どもを持つ親が、苦悶の表情を浮かべながら「この子の苦しみを代わってあげたい」とか、「私が死んで、この子が生きればいいのに」と言われるのを、見たことがある。

子供が救われるためであれば、どんな苦しみをも受ける覚悟もあるし、死という運命を代わって引き受けることさえ厭わない。そのような、自分自身への愛を上回る他者への愛が、この世界には存在する。それは、究極の愛。

神さまの私たちへの愛も同じ


クリスマスは、この「難病の子を持つ両親のような愛」をもって、私たちを愛してくれた、神さまのお話。

人は、迷い、苦しみ、滅びに向かって突き進んでいた。しかし神は人を愛していたから、そのことに非常に心を痛め、自らその運命を代わりに引き受けたいと思われた。そのために、人となり、この世界に来た。そして、実際に私たちの苦しみと死の運命を引き受けられた。

この「人となった神」が、イエス・キリスト。この人の誕生とは、「神が私たちを助けるためにこの世に来たこと」を意味する。その出来事をお祝いするのが、クリスマス。

だからクリスマスは喜びの日

私たちは、今年もこうしてクリスマスをエンジョイしているわけだけど、この日が喜びの日なのは、この日が「神の究極の愛が、私たちに現された日」だから。どうしたって、喜び、感謝せずにはおられない日。

この時期は、イエス・キリストを神だと信じる人にとってはもちろん、信じない人の多くにとっても、なんだかウキウキする、喜びのシーズン。そんな姿を見て、少し不思議な気持ちにはなるものの、けっこう嬉しかったりもする。この喜びは、全ての人のもの。

THE BEST PLACE FOR CHRISTMAS

でもやっぱり、クリスマスを過ごすのは、教会が最高。そこには本物がある。一度、教会でクリスマスを過ごしてみてほしい。ほんとすごい。感動する。喜びで満たされる。泣ける。ほんといい。最高。

みなさん、良いクリスマスを!🎄✨


聖書の言葉

中村哲先生が引用されていたのは、この箇所です。イエス・キリストは、この究極の愛をもって、私たちを愛してくださったのです。
天という、完全で何一つ不足のない場所にいた、無限の存在だった神は、この苦しみと痛みに満ちた世界に、有限の存在である人として現れた。それは、裕福な国で満ち足りた生活をしていた人が、危険で苦しみの多い紛争地に身ひとつで行くようなもの。実際、イエスは多くの苦しみを受け、死なれた。それをしてでも、私たちを助けたかった。それほどの愛。
イエスは、私たちが素晴らしい人々だったから、苦しみと死の運命を代わりに引き受けてくれたんじゃない。私たちが罪人(≒自己中心性がコントロール不能なほど肥大し、神を捨てた人)であった時に、私たちを助けるために自分を犠牲にしようと思われた。いわば、自分に向かって中指を突き立てているような人に対して、この究極の愛を示した。なぜ、そこまで愛してくれたのか、わからない。私たちの理解を完全に超えた愛。

おまけ(近くに教会がない人のために)

「教会のクリスマス興味あるけど近くに教会ないよ!」という方。最近の教会は、オンラインで礼拝の動画を配信してるんです。僕の通うNew Hope Yokohamaという教会では、12/24 (金)の19:30に以下のYouTubeチャンネルで、礼拝を配信します。ぜひご覧ください!


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