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北海道弟子屈町、マイナス25度の水面にて。

先日、TRAPOL×CQが運営する「サステナブルツアー」に取材班として参加して、北海道の弟子屈町に行った。

道東に位置するこの町は、北海道のなかでも非常に寒冷な土地で、冬は気温がマイナス20度を下回ることも少なくないという。

そんな土地で、早朝6時からカヌーに乗るという、ありがたいというか苦しいというか、なんと形容していいかわからないイベントが発生したので、今回はそのときの写真を並べながら、つらつらと感じたことを書きたい。

マイナス20度を下回ることも少なくないとは聞いていたが、少なくないというのは、あくまで少なくないというだけなので、正直「まあ、大丈夫でしょ」とたかを括っていた。

シベリアでもあるまいし、日本で感じられる寒さなんてたかが知れている。それこそが、大して旅の経験もない人間の浅はかな考えだった。

朝5時。やべぇ。宿からカヌー乗り場に向かうため、眠い目を擦りながら、外に出ると、今まで感じたことのないタイプの寒さが襲ってきた。やばいという言葉しか出てこない。寒すぎるのにも限度があるだろ。

ここで嫌な予感がしたので、とりあえず旅先に持ってきた衣類という衣類を着込んで、身体中にカイロを仕込んで外を出ることにした。

カヌー乗り場に着くと、「安全のために防水服を着てくださいね」と言われ、ゴム製のウェットスーツ的なものを着ることになった。

ゴム製の防水服は、それはそれは着にくくて、決して居心地のいいものではない。けれどこの寒さで、水の中に落ちたら、もう生きて帰られる気がしない。

というか、そんな危険をおかしてまでカヌーに乗るなんて、人間って正気じゃない生き物なんだなと実感した。

外気温を見ると、マイナス25度。終わりの始まりである。

準備が終わり、いよいよカヌーに乗り込むために、川に繋がる湖を訪れた。

目の前に広がる景色は、とてもこの世のものとは思えなかった。

この世の色を、いっぺんに奪ってしまったかのような真っ白な雪が峰々に降り注ぎ、銀の輝きを帯びた藍色の空と湖の境は、今にも溶け出して、互いを見失ってしまいそうだ。

風に揺れるカヌーに恐る恐る乗り込むと、想像よりずっと安定感があった。

インストラクターさんの運転でカヌーが動き出した。陸地はすぐに遠のいて、湖の中央へと運ばれていく。

一応オールは渡されたものの、素人の下手くそな操作で間違って落ちでもしたら、目も当てられないので、なす術はない。それなりの重量感のある木製の飾りを、カヌーの中にそっと置いておくとする。

これで、もはや私の命はインストラクターさんに握られているも同然だ。

湖の中央あたりに着くと、水面が凍っていることに気がついた。ぶ厚い氷に覆われた湖は、美しく、そしてなんとも不穏だ。

インストラクターさんは、「すこし氷を割りながら進んでみますね」と言いながらオールを漕ぐ。

バキバキと底から響くような恐ろしい音を鳴らしながら進んでいくカヌー。いくらプロだからって怖いことしないでくれ。いや、しないでください。お願いします。怖いです。

どこまでも青く深い湖。美しさに目を奪われれば、そのまま吸い込まれていきそうだ。

水面はピンと張り詰めていて、私たちが乗るカヌーが通った場所だけが、呼吸をするかのようにさらさらと揺らめく。

うまく言葉にできないが、なにか大きな力のうねりに、巻き込まれていくようだった。

湖を抜けて、次は川に進んでいく。この辺りから如実に体温が奪われていくのを感じた。

そういえば、カヌーに乗り込む前にインストラクターさんが「カヌーは身体を動かさないので、暖まるということはありません。ひたすらに体温を奪われるので、最後まで体温をどれだけ残せるかの勝負です」と言っていたことを思い出した。

私はそんなバイオレンスな土俵に登ることを承諾した覚えはないのだが。

川の流れに合わせて、カヌーが進んでいく。草木は純白の衣を羽織り、項垂れていた。

ときたま、頭上に突き出した木の枝を避けるために、カヌーの上で身体を小さく縮こませる。

危険がないよう、カヌーに乗る人間のために枝を切り落とすのではなく、人間側が首を垂れる様子は、自然に対する礼拝のようだった。

人間なんぞ、自然を前にすれば、跪くほかにできることなどない。

私たちは自然という大きなうねりの中に、お邪魔させてもらっているのだという感覚が確かなものになっていく。

分厚い手袋に覆われた、指先がどんどん悴んでくる。もしも今、手袋を外したら、手袋と一緒に5本の指が千切れてしまうのではないだろうか。

手袋の内側に残った私の指先が、コロンと地面に落ちてくる様子を想像して、背筋が震える。

圧倒的な寒さの前では、高価なスノーブーツも大した意味をなさない。足の指がそろそろ凍るのではないかと思ったとき、明確に「死」を感じた。

勝てないと思った。勝つとか負けるとかいう話ではないのだけれど、この自然を前にして、人間が自分の意思でできることなんて、逆に何があるというんだろう。

ここで立ち止まればきっと死んでしまう。水に落ちても死んでしまう。凍りそうな自らの喉から出る、まだ暖かい呼気だけが、自分の生命の持続を感じさせてくれた。

途中、カヌーを止めて、インストラクターさんがポットに入った温かい紅茶を振る舞ってくれた。

コップに入った熱々の紅茶が、喉元をゆっくりと通り過ぎた。これほど生きているという実感を得たのは初めてだった。

熱というのは、こんなにも希望を与えてくれるものだったのか。

「さむい」と「ひもじい」は、人間を死に一歩ずつ近づけると聞いたことがある。私の愛する人はみんな、どうか暖かくてお腹いっぱいであってほしい。

日がのぼってくると、川の表面から靄が立ち上がってきた。

朝日に反射し、視界が真っ白になる。それが妙に心地よくて、胸が苦しくなる。

きっと死ぬときはこんな感じだろう。こんな感じであったらいいのに。

死の感覚と生の感覚が交互にやってきて、生命が翻弄されるようだ。

終着点が見えると、正直「やっとこれで終わる」という気持ちになった。

美しい風景から離れるのは寂しいが、それでも早く暖かい部屋に戻りたかった。戻る場所があるのは、幸せなことだと思った。

目を凝らすと、ダイヤモンドダストが見える。チラチラと光るそれは、まるで生きているかのようで、自然からの祝福を感じる。

まさか生きているうちにこんな美しい景色を見られると思わなかった。

私まだ生きていけると思った。もっとちゃんと自らの生命に向き合わなければ。

吐いた息は、どこまでも白く、そして瞬く間に消えていった。

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