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徳川家康さま☘️をたどる#52☘️小田原征伐と家康さま関東移封

初筆 2023年 9月 16日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる #52
⬇️



1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)

# 三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著

# 信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  •  #真田氏 ・ #相模北条氏#家康 さまで解決できない #沼田仕置 は、秀吉さま裁きにて解決❗️

  • 1589年・天正17年ころの家康さまは、 #秀吉 さまとの諸連絡を迅速・的確に行うだけでなく、仕事。確実に実行、諸大名の規範となった😉

  • #北条氏政 さま家臣の #沼田城 に入った #猪俣邦憲 さまが真田領に侵攻💦秀吉さまは、北条氏政さまに上洛必須の最後通牒を出し、実行の遅い北条氏政さまを見かぎり、#小田原征伐 決断❗️

  • 1589年・天正17年ころの家康さまはきっと、中央政権施政者の心構えや、すべき振る舞いを、 #豊臣政権 下で学んでいった🥰🤚


⬇️前回はこちら❗️

3 小田原への先陣をたまわる家康さま

1589年・天正17年、
家臣が #関東惣無事 に触れる振る舞いをし
上洛の気配を見せない相模北条氏を
軍事征伐すると決めた #羽柴秀吉 さま❗️
諸大名に指令を出します。

家康さまは、1590年・天正18年2月に、
3万人の軍を編成して先陣を切るように
指令を受けました。もちろん家康さま自腹です💦
軍役=自腹で軍を出すこと、は、
家康さまだけが受けたわけではなくて
豊臣政権下で小田原征伐の名を受けた大名、
全員が受けました。

その軍役基準は、石高100石につき、兵5人、
家康さまはこのとき徳川総領国石高は60万石でした。
(120万石説もあります🙇‍♂️💦)
先陣を受けたのは、徳川領国が相模北条氏惣領国の
西側に面しているというのが理由というよりも、
家康さまは豊臣政権下における
#関東奥両国惣無事 担当者であったからです💦
武家社会における、秀吉さまへの奉公だったのです💦

そしてこのときも家康さまは
以前より書簡にて約束を交わしていた
御嫡男 #長丸 さま=のちの2代将軍 #徳川秀忠 さまを
上洛させ、秀吉さまのもとに差し出しました。
このころには、やることなすこと、本当に
中央政権内でスムーズです😉🤚

4 出陣

1590年・天正18年2月に居城・駿河駿府城を
出陣した家康さまは徳川軍の武将たちに
戦時下における行動規範を定めた軍法を発給し、
統制の取れた軍事行動を要求❗️
その理由は

  • 徳川軍はもはや中央政権が派遣する中央政府軍である

  • 徳川軍は徳川家の家臣だけで構成されているのではなくて、さまざまな外様国衆が徳川家与力として家康さまに付与されている。今風に言うたら契約社員が増えている

  • 家康さまはこの頃、豊臣政権下の大名であることを常に意識し、進んで諸大名の規範になろうと努力していた。

などが挙げられます。

出陣した家康さまは駿河国駿東部、
現在の駿東郡あたりまで進軍、
対する相模北条氏は伊豆半島まで
守りを固めている状態で、1590年・天正18年3月、
伊豆国三島にて戦闘が開始されました。

また #羽柴秀吉 さまは、
1590年・天正18年3月1日、京都より出陣、
3月19日に家康さま本城の駿河駿府城に
お入りになりました。そして翌日には
家康さまは秀吉さまの元に出向きます。
家康さま、やはり行動が早いっ❗️❗️😉

そして、1590年・天正18年3月29日には
伊豆国三島の北条方要衝の #伊豆山中城 を攻略、
相模北条氏本領の相模国へ向かうルートは
伊豆山中城攻略で確保され、
羽柴軍は4月には小田原城を包囲しました。

なおこの戦闘の最中、伊豆国つまり伊豆半島は
家康さまの所領として与えられ、
#本田正信 さまはすぐさま統治に着手しました。

小田原の包囲の大名配置をざっくり話しておきます。

  • 小田原城西側:羽柴秀吉さまを中心に織田家家臣から羽柴家家臣となった大名

  • 小田原城北側:秀吉さま親族・織田家大名

  • 小田原城東側:徳川軍

  • 小田原城南・海上:豊臣家に臣従する大名うち水軍を持つ大名の水軍

アリの這い出る隙もない、とはまさにこのことでした💦

5 小田原以外の北条領国での戦闘

小田原征伐というと、豊臣軍が小田原城を包囲し、
秀吉さまはゆるりと攻めるべく、築城したり
庵をお作りになり、 #千利休 さまに #茶の湯
諸大名を労わせた、などの話ばかりが
目立ちますが、そもそも北条家総領国は、
相模だけではなく、以下があり、小田原征伐では
その各地で戦闘が勃発しました。

  •  #武蔵 :今の東京都と埼玉県

  •  #上野 :群馬県

  •  #下野 :栃木県

  •  #上総 :千葉県北西部

  •  #下総 :千葉県房総半島(先端は除く)

上野から北条方諸城を攻略し武蔵へ進軍してきたのが、越後 #上杉景勝 さまや加賀 #前田利家 さま、
また、大将に秀吉さま家中の方々を置き、
#本多忠勝 さま・ #平岩親吉 さま・ #鳥居元忠 さま
の軍勢は武蔵国東部から下総・上総、つまり、
今の葛飾区・江戸川区から隣接する千葉県へと
攻略を進めました。

またこの時点で既に秀吉さまに従属していた

  • 佐竹氏(常陸国:茨城県)

  • 結城氏(常陸国・茨城県と下野・栃木県の境界)

  • 宇都宮氏(下野の宇都宮:栃木県)

  • 里美氏(安房:房総半島先端)

は北東部から北条総領国に進撃してきました。
そして、北条氏御一門が直接管轄していた、
そして城主の北条家御一門は小田原城に入り、
家臣のみで守る

  • 武蔵岩付城(埼玉県さいたま市: #北条氏房 さま)

  • 武蔵鉢形城(埼玉県寄居市: #北条氏邦 さま)

  • 武蔵八王子城(東京都八王子市: 北条氏照 さま)

はことごとく陥落し、小田原城の北条氏政さまは
追い詰められていきました💦💦

6 家康さま関東移封

小田原征伐中に家康さまは秀吉さまより
今現在の駿河・遠江・三河・甲斐・信濃から
関八州、すなわち北条総領国への国替を
打診され、家康さまはお引き受けになります。

ドラマや読み物などではよく、
秀吉さまは脅威の軍事力と方々からの信頼を
持つ家康さまを畿内より遠ざけた、とか、
北条総領国経営に失敗したら改易するため、とか、
三河以来の家臣団は徳川家発祥の地、三河を
取り上げられるとは何事かと怒ったとか
描かれることが多いです。

それぞれ、まったくない話ではありませんが、
家康さまの関東移封はそこが主目的だったり
中心的に考慮すべき点ではありません。

家康さまは、1590年・天正18年の時点で
中央政権の保護下にあるたかだか60万石の大名
(120万石説もあります)で、
秀吉さまにとって、軍事的・人材的脅威では
ありませんでした。
また家康さまは、主家の羽柴家の家臣であり、
#関東奥両国惣無事 における軍事・外交、そして
それらの現場担当者です。

関東奥両国惣無事に勤め、トラブル発生時には
真っ先に対応するのが家康さま目下の仕事でした。
それを全うするためには、東海地方の本拠地では
遠過ぎます。関東の真ん中にどーんと
居城を構える必要があります。

また、秀吉さまは、家康さまのこれまでの、
他の大名から徳川家総領国に配合した
地域の統治を散々行ってきた実績も、ご存じです。

家康さまの関八州移封は
秀吉さまが家康さまを追いやったのではなく、
業務上、現場へ長期的に向かうことにさせた、のです。

家康さまはこれを謹んで承ったでしょうし、
業務上の明確な理由は、
三河以来、徳川家で功績を上げてきて
今も徳川家に残る家臣なら物の道理はわかるはず、
家臣団も関東移封は納得したと考えられます。

ちなみに、 #織田信雄 さまは、旧徳川家総領国に
移封されることに、これを拒否💦
秀吉さまに改易されました💦💦💦
皆さま、お金持ちに生まれても
生馬の目を抜くのを、虎視眈々と
待ってる方はいるのですよーー💦💦💦 

7 次回


1590年・天正18年7月、相模北条氏は、
秀吉さまの小田原征伐に耐え切れずに降伏。
ここに後北条家は断絶します。

そして家康さまの関八州統治がスタート❗️
さらに奥州に目を光らせる役割もっ❗️❗️
言うたら大会社の常務取締役くらいなのかっ❓❗️💦💦


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