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そんちゃん先生ってどんな人?28歳で正規教員を退職&コミュニティ設立までの苦悩と現在までのストーリー


こんにちは!そんちゃん先生です^^

6年の支援学校・美術教員の経験し28歳の現在、
" 子育てに自信のないママが、今の3倍お子さまとの時間を楽しむ "オンラインコミュニティを運営しております

教員時代、自分が担当していた地域の親子だけに限らず、

オンラインを通じて全国のママさんやお子さまの相談やお悩みに濃く、深く寄り添える日々を過ごしています!

1年前まで、教員をしている時はこのようなことが出来るとは思っていませんでした^^

「でも、そんちゃん先生は教育のプロだし、何も今まで子どもへの対応で失敗なんてなかったでしょ?」

そう思われますか?

いえいえ、そんなことはないんです!


私もこれまで、子どもに対しての言葉かけや対応のタイミングで、数々の失敗を経験してきました。


では、私がそもそもなぜ教員を目指すことになったのか?生い立ちから現在までのストーリーをここで紹介したいと思います!


なぜ教員を目指したのか?

・人生で初めて味わったイジメ
・同時に起こっていた学級崩壊

奈良県の病院で生まれた私は父と母にとって初めての子ども、一人娘ということで
2年後に生まれる弟と二人姉弟で、愛情込めて育ててもらいました。

保育園に入園、今も繋がりのある親友にも出会い
小学校入学後も、4年生までは順調に人に囲まれて幸せな日々を過ごしていました。

・人生で初めて味わったイジメ


5年生に上がると、高学年ということでなんだか周りも自分も一段階、
心身ともに成長しているように感じました。

そのため、今考えると後にいじめっ子たちとなる当時の友人にもどこか威圧感を「うっ」と感じていたのかもしれません。

イジメは突然始まるのではなく、はじめの関わり方が、自由帳にお絵描きをしていた私へ「絵めっちゃ上手やなぁ!」だったのに対し、徐々にあたりが強くなり始めたような感じでした。


イジメが発覚したきっかけのワードは「10000円持ってきて。わかった?」でした。最初とすごい違いですよね。


小学5年生の10000円って、大人の100万円くらいの感覚。
泣く泣くお年玉を…と思い封筒を開けたら、それすらも過去にその子たちに取られてしまっていたのでした。

「カツアゲされてるやん」「それ友達って言えるん?」

「どうしてもお金がいる」と頼み込んだ母からの言葉で一旦はハッとなるものの、当時の私は「断る勇気」を全く持ち合わせていませんでした。


・同時に起こっていた学級崩壊


担任も毎日、この世の終わりかのような表情をしていたので、まさか助けを求められるはずもありません。

親は心配してくれるものの「学校に行かないと負けた気がする」ムダなプライドで毎日、登校していました。


そのままずるずるとターゲットにされること1年間、
一番辛かったのは同じ校内にいる弟の目の前で、ゴミを頭に乗せられたまま
歩かされることでしたね。


イジメが終わった後も

結局5年間、うまくいかない人間関係


「あの子はいじめられている」「いじめられキャラ」ということが
他のクラスにも伝わったのか?


そのまま中学を卒業するまで、小5のグループだけに限らず
部活内や転校生などいろんなメンバーからの嫌がらせやあからさまな仲間はずれ

「小学生の時とここが違うな。」

なんて冷静に分析していたのは、
目に分かる形で手は出してこないこと、そして
先生の前では絶対やられないこと


暴言や絶縁状、ネット掲示板という形で
攻撃してきてたことですね。

そこまでされて、限界はこなかったのか?


こう思いますよね。正直、すでに小5の段階で限界は来ていました。
ランドセルにカッターナイフを忍ばせて登校した事もあります(もちろん未使用)


飛び込んできたニュース


そんな私にも、今でもつながりのある大切な友人や、当時付き合っていた彼はありがたいことにいたんですよね。

横ヤリで容赦なくブッ刺してくる他のグループが常にいながらも、一方で友人グループには大変助けられました。


彼、彼女らがいなければ私は「全人類が大っ嫌い!」な気持ちで今も居続けていたかもしれません。

・高校生になり、いじめのない世界に驚く


心の支えにしていた彼とは学校が離れ、お別れしましたがアルバイト、学園生活と毎日を大いに楽しんでいました。


なるべく加害者たちから離れたかった私は、往復3時間かけて通学。それでも快適な人間関係のある場所にいられると思えば、なんてことはありませんでした。

「今まで散々いじめられてきたけど、その分私は人に優しく関わって楽しく生きていこう。」

そんな心の余裕ができた時に、あるニュースが目に飛び込んできました。

「いじめで年間、〇〇人の子供たちが自ら命を絶っています」
タイトルや番組名は?と聞かれても、もうあやふやで覚えていません。


でも、なぜか私の中でビビッと
「この子たちは私と同じ心の痛みを持ったまま、つらい決断を選んだのだな」
「私はいつか、このような子たちを助けなきゃいけない」
漠然とそう思ったのです。

「でも、高校生で何ができるんやろ?」

と、自分にツッコミを入れたまま、番組のことは頭の片隅にいき、
あっという間に大学受験や2つかけ持ちしていたアルバイトに追われ、具体的な行動は何もできないまま卒業しました。

「先生になれるんですか?」


・教員免許を取れることを知って、思い出したこと


元々、絵が好きだった私はデザイン系を学べる大学へ入学。
サークル活動中、一人の先輩からある一言を言われました。

「そういえば、来年から先生になるねん!」

何も知らない私はこう答えます。

「え?この大学って教員免許とれるんですか?」

何も知らずに入学した私…教育大好きな今となっては、信じられません。笑


「なんとな〜く、デザイナーにでもなるんだろうな。」
そう思っていた私は一気に「教職」に心惹かれ、


かけ持ちの片方のバイトを辞めて、塾講師のバイトで子どもたちとの関わりを増やしていくことに。
同時に、高校生の時に見た、あのニュースのことを思い出します。

当時は「高校生に何ができるねん?」と思っていた私でしたが、

「教員になれば、つらい思いの子どもたちにも寄り添える」
「過去、私が一番つらい時、先生に寄り添ってもらいたかったように」

と、気づけば死に物狂いで毎日勉強に時間を費やし、バイト代は教員採用試験のためのテキスト購入にあてました。

あの時の頑張りは、人生で一番だったと思います。


・約3年間の勉強の成果が実り、採用試験には一発合格!

「これでやっと先生になれるんや。」
「教壇にも立てるし、つらい気持ちの子どもたちにも存分に寄り添える。」

「関わっていく子どもたちを笑顔にして、そのママさんも一緒に人生を楽しんでもらいたいな。」

ウキウキな気持ちで残りの大学生活を謳歌し、無事卒業した直後には大阪の勤務先の学校も決定、春からの新生活に胸を膨らませていました。


理想と現実のちがい


勤務先は支援学校、担任は私含めて5名の先生との組み合わせでした。

入学式の晴れやかな生徒の表情に、私もとても嬉しい気持ちで、しばらくの間はとても楽しい時間を過ごしていました。


学年がスタートしてわりとすぐ、担任していたご家庭からの「学校への不信感を解消するための会議」が連日続き、

学校のメンツをつぶしたくない部主事なども言われるがまま話を聞くことしかしないため、何時間も会議室にこもってはゴールのない会議をぐるぐるとし続け

気づけば夜の22時すぎに家に帰り、夜中の1時まで資料を作りまた5時起きで通勤する、そんな日々が続きました。

もちろんそれ以外にも楽しいことはありましたし、生徒と過ごす時間には疲れも忘れていました。


一方で、授業で生徒の前に立つ時のコンディションは決して完璧とは言えず、生徒への関わりで失敗も絶えませんでしたし、まず知識を吸収しているヒマもなかったので、

子どもの話の聞き方や子ども目線に立った関わりは何一つできていませんでした。

「あれ?私ってなんのために教員になったんだっけ?」

そう考えることが増えました。

「子どもたちのために」
「生活のために」
「自分の叶えたかったことのために」


体を引きずって
通勤していました。
往復3時間の通勤時間の中、途中下車してトイレに吐きにいったこともありました。

「19時には帰って!」

・初めての転勤
・常に不安で仕方なくなる


パワハラじゃないか?といわれるような時間に退勤続けていた私でしたが、ようやく勤務2年目の時に、職員室の完全退出時間が19時と決まりました。


もちろんどうしても頑張らないといけない残業などは少し超えることもありましたが、

19時の基準が設けられたことによって、だいぶと帰りやすくなりました。

「これが1年目だったらどんなに良かったか…」

と頭をよぎりましたが、そうも言ってられないので、新たなスタートを切るつもりで違う学年チームの所属で日々奮闘していました。


そこで、今も心の中でずっとお手本としている師匠である、一人の先生に出会うことになります

「僕らって、 保護者とか子どもの一歩前に行きすぎると行き過ぎなんだけど、一歩下がりすぎても何にも支援できないよね」
「だから半歩前に常にいるということを意識してるよ」

初めて耳にした時、衝撃でした。
今まで、そんな気持ちで子どもをサポートできていたかな?と。

そして同時に、生徒指導をした後の自分を省みる機会をたくさん作りました。

その先生の言葉を胸に働いてみると、1年目のしんどさはどこかに行き、子どもたちの気持ちを第一優先に、笑顔で働けている自分がいました。


・初めての転勤

あっという間に4年の月日が経ち、主人と入籍すると同時に転勤辞令が出ました。

次の転勤先でも同じく、子どもたちが第一優先、という気持ちを胸に頑張って突き進んでいこうと決めた時、

新型コロナウィルスが大蔓延し始めました。

・常に不安で仕方なくなる

新たな職場も決まって、自分の担任する生徒の名前も分かっているのに、顔も分からず2ヶ月間も会えないと言うしんどさ。

そして教員人生初めての、9割がテレワーク(自宅勤務)。

久々に出勤できたと思ったら、一切使い方がわからない電話機で保護者からのコロナに対する質問対応。
全くわからないことに、質問してもらっても答えられないもどかしさが続きました。

家に帰っても、全く慣れていない結婚生活。旦那との衝突も絶えず、心が限界に来てしまい、自分の行動も信じられず、何もかもに不安を感じる日々。

不安障がいになるのはすぐでした。

私の場合、過去に起こった" 自分の学年の生徒作品が手元から離れてしまった "という経験がフラッシュバックし、物の紛失・物が壊れたり壊してしまったり、自分が「ある」と思っていた場所に物がない
他人と駅でぶつかる(自分がケガさせたんじゃないか?と思う)


これらの状況がとてつもなく恐ろしくなりました。


もちろん今までそんな事はなかったし、あったとしても「まーいっか!」と流せていたんですが、心の不安定さがそれを呼んだのだと思います。


たとえば「小さなポーチを落としてきた」と気付いた時、

心当たりの場所はわかっているのに、そこに確実にあるかどうかの確信がないので不安が付きまとい、
家のリビングの床で寝そべって涙することしかできない時期もありました。


人生で初めて通った心療内科の先生に、「もしかして強迫性障がいですか?」と聞くと、そこまではいってないけど不安がとても強い状態、と言われ

たまたま先生のカウンセリングがとても良かったものの、仕事以外の自分は常に廃人寸前でした。

月に1、2度のカウンセリングで、通院していない間の不安や悩みを全部ぶちまけては涙して帰る、という期間が続きました。

こうしてるうちに、

「自分って今のこの状態から、一生脱却できないのかな?抜け出せないのかな?ずーっと不安と付き合っていくのかな?
こんな状態になるためではなく、生徒のために教員になったのに。」

モヤモヤを抱えながら、心の奥底では「自分を変えたい」とどこかで思っていました。

・精神科の先生との出会い


自分のモヤモヤに嫌気がさしてきた私は、なんとなくYouTubeで
「不安 もうやめたい」そう検索したんです。

ある動画にたどり着き、そこで出会った精神科の先生は、本業でも病院の先生をしながら、診療とはまた違った感じで、とても楽しそうな様子で不安になる心の状態の解説を、動画で発信されているようでした。

「どうやったらこの人みたいに楽しく物事を考えられるんだろう。」

自分は腹の底にも頭の中にも、常にドス黒い不安しかないのに
「不安は全て妄想です!」と言い切っている先生を見て、どうやったら自分がこうなれるか?と真剣に考えました。

そこからその先生に半年間、人生を楽しめる心理学を学ばせていただき、日々を生きるための楽しいメンタルの保ち方を身につけることに成功しました。

ここで強く実感したのは、自分がモヤモヤした時やメンタルが崩れそうという時、自分の精神力・スキルに期待しすぎないということ。
時間やお金をかけてでも、素直に誰かを頼りまくればいいということ。


そうでもしないと、人生なんて簡単に変わらない。
行動しなければ価値観は一生そのままなんだ
と実感しました。

自分を立て直すことを自分でやりすぎると、そりゃ潰れますよね。

柱が倒れても、反対側から誰かがメンターとして支えてくれている状態と、そうでない時との違いは歴然でした。

「いつでもこの人に相談できる」

そんな環境が不安を拭い去り、「よし、次は何に挑戦しようかな?」と、いつの間にか楽しく行動できる日常に変わっていました。


生徒対応に注ぐ気持ちも変わりだし、担任していた自信ゼロだった子ども

「先生ー、今わたし、何も悩みない。ありがとう」

と言って卒業していきました。
言葉で言い表せないほど嬉しかったのを覚えています。


そんな不安まみれの日常から抜け出した時、
私は教員になる前に心の中に決めていたミッションを思い出します。

「関わっていく子どもたちを笑顔にして、そのママさんも一緒に人生を楽しんでもらう」

そのために教員になったのに、結局は仕事の影響で自分の首を絞めてしまっていたということに気づきました。

このままでは自分がやりたいこと・届けたい思いは絶対に届かない。
自分の所属している学校ですら、会議まみれで声も出せない環境なのに。
何かを新しく変えたい!

そんな思いでオンラインコミュニティを設立することに決めました。

「先生をやめて、発信してくれてありがとう」


インスタグラムやブログにて、実際に学校現場で重ねてきた指導法や、子どもの自己肯定感の上げ方などを発信し続けていると、そんな言葉をいただけるようになりました。


自分が学校で担任していた生徒の親御さまが、私にお悩みを打ち明けてくれるように、心にモヤモヤを抱えているママさんは全国にいらっしゃるんだということがはっきりとわかった瞬間でした。
オンラインで発信していないと、気付けなかったことだと思います。



決して、私が提供していくお子さまの心理学や「こんな風に考えると気持ちが楽になるよ」ということが、すべてのママさんに当てはまるとは全く思っていませんが、

自分が6年間やってきた子どもたちへのアプローチ方法や、自信を上げてきた実際の行動や思考法は、自分の中で収めておくのにはもったいない。


もっと多くの人ママさんに知ってもらい、今後の親子の人生や子育てで、
お子さまが自立するその時に後悔がないように、「子育てを楽しくやってきて良かったなぁ」と思えるように。


そんな気持ちで、未来のママのためにお届けしていける存在になりたいと思っています。


今できることを一緒に積み重ねていきたい!と言ってくださるような人が増えるように、私は今後もお伝えし続けていきます。

最後に

私のミッションは、高校生の当時、ニュースを見た時からずっと変わっていません。

「心の痛みを持ったままつらい決断をする子どもをゼロにする」
「関わっていく子どもたちを笑顔にして、そのママさんも一緒に人生を楽しんでもらう」


今これを読みながら、
「子どものことが大切で大好きなはずなのに」
「子どもに関わるのが億劫になっている」
「子どもとちゃんと話をするのが怖い」
「昔のように、お互いの気持ちを思いきりぶつけあえるようになりたい」
「お互いの言葉で楽しく会話できるようになったらいいのに」


こんな思いをあなたもお持ちかもしれませんね。


私からひとこと言いたいのは、現状は明日・あさってにはすぐ変わりません。
今まで卵だったものがある日突然、ニワトリにはならないですよね。
過程や段階はつきものです。


ただ、くさらず、日々の積み重ねをあきらめなければ必ず実を結びます。
人との信頼関係が1日2日そこらで成り立たないのと同じで、それは親子にとっても同じなんですね。


別にぶつかり合ってもいいんです。元はといえば、違う人同士なので。

そこからどうアフターフォローをしていくか?
どのようにママのマインドを保ち続けるか?
どんな環境に身を置き、誰と関わり、どんな言葉かけをしていくか?
そちらの方が重要です。


あなたも昔の私のように、自分のことで手一杯で、時間も「コレだ!」という自信もなく、同じ悩みの中でグルグルと悩まれているかもしれません。


旦那さまや他のご家族にこそ、一緒に子どもについて考えてほしいのに、なかなか理解されない時だってありますよね。


過去、自分自身も全く子どもの気持ちに寄り添えず、もどかしい時期が続いたからこそ、あなたの悩み・不安に寄り添える自信があります。


今日の私の記事をお読みいただいて、私から" 子育てを楽しむコツ "を聞きたい!そうあなたに思っていただければ幸いです^^


✔︎ お子さまに素敵な声をかけ続けたい
✔︎ 揺るぎない自信をもって欲しい!
✔︎ 何より自分自身が楽しんで子育てしたい!

そんな素敵な思いのあるあなたと、個別相談で
お話できるのを楽しみにしていますね!


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