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素晴らしい本

 坂口ふみ『〈個〉の誕生』は、これまで私が読んできた人文書の中で一番好きな本の一つです。


 内容としては、キリスト教揺籃期の古代ローマ時代、信徒や聖職者たちがいかに苦心して「三位一体論」や「キリスト論」を練り上げてきたかについてのストーリーを、ニカイア公会議(AD.326)から第二コンスタンチノポリス公会議(AD.553)に至る教理論争での個別論点を踏まえて追いつつ、その過程で西洋的な「個」の在り方が立ち上がってくる様を示していく、というものですが、遥か昔の時代の人々がいかに既存の言語によって、論理的に、捉えどころのない宗教的な事象を説明しようとすることに血筋を上げてきたか、形而上学的な「概念」を正確に定義づけることに対する執着には驚かされます。


 「父」と「子」と「聖霊」という全く異なる存在形式のものがいかにして「一」として捉えられるのか。
 「神」と「人」という、根本的に異なる存在形式のものが、いかにして「キリスト」として、一つの統一体として認識され得るのか?


 キリスト教の教理を最初に造り上げた人々は、これらの問題に対して、既存の言語を駆使して、可能な限り精緻な説明の仕方を考案してきました。


 そもそも相いれない複数の属性のものを「一」として説明する仕方には様々ありますが、教義論争が繰り返されるうちに、いくつかの説明図式は「異端」として退けられていきました。どのような説明図式が異端とされてきたか、といえば、例えば、神と人とをまったく別の存在形式のもとで二元論的に説明する図式であったり(ネストリウス派)、その二元論を解消する営みの中で、逆に、まったくの一元論に解消されてしまうような説明図式(単性説)が、「極論」として退けられてきたわけです。


 異なる属性を持つ概念を、それが二元論になってしまったり、逆に一元論に解消されてしまうような極端なベクトルの説明様式を避けつつ、しかも「一」なるものとしてのロゴスの概念を死守するような、極めて繊細なバランス感覚を要求される教義論争の中で、キリスト教神学の言語に対する緻密な感覚が研ぎ澄まされていきました。


 我々が現実の世界を認識する時に、もし仮に「概念」がなければ、世界に生じるありとあらゆる事象はすべて一回こっきりの個別事象となり、それが何なのかを理解する手立てを失ってしまいます。しかし他方で、あらゆる現象を概念の枠組みに閉じ込めようとすれば、現実の多様な豊かさを捉えそこなってしまいます。言葉は現実を捉え、「理解」するために必要な道具ですが、それが現実の豊かさを殺してしまう側面もあるわけです。

 

 これを自我の問題に置きなおして捉えてみるなら、私の「私性」とは何なのか?ということになります。つまり、1年で体内に存在する水分がすべて入れ替わり、日々細胞が新陳代謝を繰り返しながら、何一つ、過去の自分と同じ部分が存在しない「私」が、なぜ一個の私であるのか?
 あるいは、多様な他者との関係性の中で、様々な一面を見せる私は、果たして同一人格と言えるのか?

 

 私が私である根拠とはどこにあるのか?  


 著者は、こうした教義論争の果てに、現実的な足場を欠いた抽象的な存在でもなく、統一的な共通項を欠いた感覚的事象のカオスでもない、つまり、形而上学の彼方や現実世界のカオスのいずれのベクトルにも解消されることもなく、その間でバランスを取っているような、今ここに現前しているかけがえのない「個」という考え方が生まれてきたのだ、と主張します。


 具体的には、「ヒュポスタシス」という概念が、キリスト教の教義論における三位と、キリスト論における神と人とを、「本質の統一性」を保ったままでその感覚的な「リアリティ」を失わせずに統合する概念として彫琢されたことが、後の時代に、デカルトに始まる近代的な自我の概念の発展に少なからぬ影響を与え、西洋的なアイデンティティの拠り所になっていったのだ、ということのようです。「私」が日々移り変わっていく事象の連続体であるにも関わらず、それでも「私」という統一体として認識されるのは、その本質において「私性」(ヒュポスタシス)があるからであると。


 著者は、自身の友人との過去の交流からこのアイデアを引き出してくるのですが、その叙述は感動的ですらあります。最後に著者は、この考えを導いてくれた追憶の中の友に対してこう語りかけます。


「しかし、アンナ、私が書きたかったのは、あなたが知りすぎるほど知っていたことだ。つまり、いちばん私的で、個人的で、いきいきと真実なこと、したがってまたとらえようもなく繊細で無定形なもの、そういったものへの感覚だけが、ほんとうの普遍、つまりほんとうのことば、概念、組織、制度を生むことができるということを。そしてもちろん、そういう繊細で無定形なものたちは、普遍に支えをもとめるのだが、普遍なものはいつも両刃の剣だということを。それは生命を抑え、殺す傾向をつねにもっている。その二つのたえまないあらがいの中で私たちは生きるしかないのだし、その中で普遍のつくるかたちにできるだけ生命を与え、またはつくりかえるのが私たちみんなのなすべきことなのだろう。」


 これを読んで私は、「動的平衡」という概念を思い出していました(福岡伸一『生物と無生物の間』(2007年)、『新版:動的平衡』(2017年)など参照)。細胞の浸透膜のように、一定の「形」を保ちつつも、その内実は流動的で、常に新陳代謝が行われるような、そうした「法」や「制度」こそが、正義にかなったものなのではないか、と。


 法や制度など、言葉によって造られた仕組みは、冷たい鳥籠のようなものなのではなく、常に現実の豊かさによって挑戦を受け、新陳代謝を繰り返しながら、動的平衡を保っていくものなのだろう、と、自分の仕事に引き付けて、改めてそんなことを感じます。

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