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③【東川光夫 先生】宝生流能楽師をもっと身近に。

今回から「つなぐ」をテーマに、能楽師の先生方が親や先輩から受け継いできたものをご紹介していきます。

東川光夫先生は3月の月浪能で「高砂」を勤められます。高校生の頃から能に興味を持ち、大学時代は宝生流のサークルに所属し、年間たくさんの能楽の公演を観に行かれたほど能が大好きな東川先生。つないできた大切なもの、能の世界との出逢いや学生時代のお話など、盛りだくさんな内容になりました。

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――東川先生が「受け継いできたもの」は何ですか?
佐野萌先生の原稿用紙です。先生はご自分の会の会報「一声」をずっと書いてらして、専用の原稿用紙を使ってらしたんですよ。これは僕が30歳のとき1月の五雲会で「東北」を舞ったとき、渡されたものなんです。細かいご注意が書いてあるんです。先生はとても筆まめだったので、飛行機に乗っているときでも原稿を書いているんですよ。字がとってもお上手で、味のある書き慣れた字が、私はすごく好きなんです。

最初の3行に「とても良かった」ということを書いてくださっていて。それにびっくりしたんですね。褒められるということは滅多にないことなので。先生独特の言い方で、「とても良い方向に進んでいる」とよくおっしゃったんですよ。先生に「僕は今、どの辺にいるんでしょうか。」と聞くと、「方向は合ってるよ。」といつもおっしゃった。普通は「東北」なんて曲は若い能楽師に充てられる曲じゃないんだけれども、この時は図らずもこのような曲をいただきました。

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――佐野萌先生からは、毎回このように講評をいただいていたのですか。
いえ、これだけです。感想をときどきおっしゃっていただくこともありましたが、書いていただいたのはこれが最初で最後だったんです。何もおっしゃらないことが普通なのですが、この原稿用紙には細かく書いてらして、「これは今言っとかないとだめだな。」と思われたんじゃないかと。読んでみたらすごく肝に命じることがいっぱいありました。

これは一生大事にしたいですね。額装しようかと思っています。実はまだ誰にも見せたことがないんですよ。まあ、僕以外に見ても仕様がないんですけど。自分が褒められているものを「どうだ!」と言うのは恥ずかしいから、ずっとしまい込んでいました。

教えというものは、形で出すことはすごく珍しいんです。ただ、先生が書かれたものでときどき読んでいると、「あ、そうか。僕もそうしないといけないな。」と思ったりすることも未だにあります。直接言われたわけではないんですが。

例えば、僕が藝大に入ったころに、先生がどこかに書いてらしたんですけどね、「最近の楽師は洋服で楽屋入りしているが、それから紋付に着替えて、切戸出て行ったって、着物は身につかないだろう。」というようなことが書かれてあって。子どものころからやっている能楽師は着物を着慣れていますが、僕のように後から入った人間は、着物が身についていないんじゃないかなと思っていました。30歳になった誕生日の次の日に、「これから僕は着物で過ごす」と宣言したんです。身体に着物が身につくように、そう思って着物で出かけることにしたんですよ。恥ずかしかったのは最初の一週間くらいでした。あの頃は若造が着物を来て歩いていると目立つから、じろじろ見られましたがすぐ慣れましたね。それから38年ずっと出かけるときは基本的に着物を着て行くようにしています。

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――お能に興味を持ったきっかけを教えてください。
はっきりときっかけを覚えているのは、「面」なんですよ。昔、関西方面の観光地やお寺を紹介する「真珠の小箱」という15分の番組を毎週見ていたんですけど、偶然、在原寺の跡、能の「井筒」にかけて紹介した回がありました。それを見て、「能面ってすごいなあ。見てみたいな。」と思って博物館に行ったんですよ。博物館で能面を見ていたら、着けて動いている所を見てみたくなったんです。飾った能面ではなくて、実際に舞台でどのように見えるのかなと興味が湧きました。中学生くらいから仏像彫刻が好きだったんです。だから、修学旅行で奈良、京都に行くのがものすごく楽しみでした。中学生としてはなんだかじじいみたいですけど(笑)。彫刻から来た縁だと思います。

ちょうど大学に入る春休みのときに、親しくしてくださっていた先生に「お能を観に行きたいんですが。」と聞きましたら、「飯田橋と水道橋にあるよ。」と教わって。大学の試験場の下見に行った帰りに、この宝生能楽堂(当時は水道橋能楽堂)と観世能楽堂(当時東京都新宿区新小川町に拠点があった)に寄りました。事務所で「お能を観たいんですけど。」と言いましたら、パンフレットをたくさんいただいたので、家に帰って見たら、今考えたら本当におかしいんですけど、有料公演と無料公演があったんですよ。一ヶ月の予定を見たら、白い丸と黒い丸があって、白は有料、黒は無料だったかな。ある会で、お能が4番くらい書いてあるのに全部黒になってて、「おかしいな。」と思いました。そのときは、なんで無料なのか分からなかったんです。

伊藤先生の社中三叟会に行ったのですが、朝9時からだったので、8時45分から水道橋能楽堂に行ったら誰もいないんですよ。初めて能楽堂に入って、客席に座って、すごく感動したのを覚えています。橋掛りから、紋付を来た人がすーっと現れたので見ていたら、向こうが僕に気が付いてびっくりしてすぐ引っ込んだんです。後で知ったことなんですが、その人は現在の渡邊旬之助先生で、内弟子に入ったときの先輩だったんです。その日「巻絹」のツレを勤めるということで、ちょっと橋掛りを歩いてみたくなったんだそうです。そんな時間に誰かいると思っていないから、僕が座っていたのに驚いたと後から聞きました。

お昼を食べるタイミングも分からなかったので、ずっと夕方まで観てました。最初に観た「敦盛」は、「やっぱりかけている能面は違うなあ。」って思いましたね。

お能を好きになった後、どうにかお金を払う方よりもらう方になれないかなと考えまして、20歳のときに藝大に行くことに決めました。とにかく家元の英雄先生に実際に顔を覚えてもらわなければ何も話が始まらない。先生の家に尋ねて行って「頼もうー!」というわけにはいかないし。先生は藝大に教えに来てるから、藝大に行くのが一番早い道だし、それが唯一の方法だろうということで、卒業と同時に藝大を受けました。「まあ、落ちるだろう。」と思っていたので、國學院大學の宝生会の後輩には「僕は1年浪人するから、その間は毎週来てお前らの稽古をしてやるから。」と言っていたんですけど藝大に受かってしまって(笑)。

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――國學院大學ではどのような学生時代を過ごされていましたか?
大学に入ったら、宝生流の能楽サークルの勧誘する人に捕まって(笑)。女性二人の先輩が、「あなたお能に興味ある?」と聞いたので、「あります!」と言ったら向こうがびっくりしちゃって。「それじゃあ、うちのクラブに入らない?」ということになりました。先輩が「去年お能をやったのよ。」と「羽衣」の写真を見せてくれました。「学生でお能ができるんですか?」「できるわよ。」「じゃあ、やります!」といった流れで。結局4年間、お能はできなかったですけど、謡三昧の生活を送りました。教室にいるか部室にいるか渋谷で飲んでるかといった感じでした(笑)。

僕は勧誘が苦手だったので、新歓のときは部室で待っていて、誰か引っ張って来たらその人を説得していました。そのまま飲みに連れて行って...というのがいつものやり方でしたね。ある年、ちょうど僕の一学年下にこの間亡くなられた先代の中村勘三郎さんが入ってきました。当時は勘九郎でしたけど。僕が冗談で、「ちょっと勘九郎を勧誘して来い。」と言ったら、またね、ばかな後輩が行ったらしいんですよ。そうしたらね、「私は観世をやっておりますので、宝生流は...。」と断られたんですって。歌舞伎だと観世流を習っている方が多いんです。

――今の学生に向けて伝えたいことを教えてください。
今、観に来てくださるお客様に若い人が多いんですけど、お能を「やろう!」という人がいないんですよ。やっぱり学生のクラブも、時代の流れというのがあるようで、能楽のクラブは本来、体育会系ですからね。正座して厳しいお稽古をして、発表会に出る。合宿は本当に体育会系でした。僕のクラブの場合は朝6時半からお稽古していましたから。みんな3日で声が枯れるくらい厳しい合宿でした。今の学生さんは何かのために何かをやって、というノリがあまり通用しないように思います。その場でやってその場で楽しむというような。夏はテニス部で冬はスキー部みたいなね。

能楽を普通のミュージカルを観たりするのと同じ感覚で、昨日は映画を観に行ったけど、今日は能を観に行くみたいな感じで、観に来てもらえたらなと思います。僕が若いころは、今日は映画行こうか能行こうか、というような感じでした。

僕は流儀に関わらず能ばかり観ていまして、最高で年間200番くらい観てました。1ヶ月に24番という記録が残ってます。もちろん、学生料金で安かったのもあります。確か500円くらいでした。渋谷にいると、「今日はどこで能やってるかな。」と調べて行ってました。すごく幸せでしたね。お能を観て次の日に部室に行って、「昨日こうだったよ!」とみんなに説明して。お能も落語もね、公演が終わったらもう観に行けないですから。そこがまあ、潔いっちゃ潔いんですけどね。評判聞いて行ったって、もうやってないですから。

能をたくさん観て、面白くなってくるまでが大変なんです。面白くなったらこっちのもんですよ。お能を観ていてちょっと奇跡的な体験をするというようなことがあれば、もうずっとお能のファンでいてくれるんですけど。なかなかそこまでいきにくいんです。

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――今回の公演で注目して見ていただきたい所を教えてください。
「高砂」ですから、劇的な要素はないし、本当にストレートな曲なんですよね。老人夫婦と松ですから、両方、めでたい以外の何物でもないですよね。昔は長寿がめでたいことだったし、松は千年も変わらないから舞台に松が描いてあるわけですから。その変わらないこと、長寿ということが実にめでたいんだ、ということをストレートに表現している曲です。

あとは、神舞ですね。これを観てもらうしかないですね。「高砂」と「弓八幡」に限ってはどんなに速く演奏してもいい、という囃子方の不文律があるらしいんですよ。だから、その速さについて来い、と囃子方はすごく速い神舞を仕掛けてくる。特に若い囃子方がしたらね。その挑戦を引き受けて立たないといけないし。ただ速く舞うじゃなく、「速く見せる」という工夫がね。速く舞うは誰にでもできるんですよ。だって体が動けばいいだけだから。

さらに、「爽やかさ」が重要だと思っています。僕が20歳のときでしたかね。金春流の会で本田光洋先生の「高砂」を観たときに、神舞があまりにも素晴らしくて。舞台から風がさーっと吹いてくるような感じだったんですよ。できればあのように舞いたいです。まあ、無理ですけどね。自分が思っていることと、お客様が感じられることは違うから。「僕がこうやっているんだから!」と押し付けることはできないので。僕は純粋にひたむきに勤めるしかないと思いますね。こういう曲に関してはあまり考えずに、間違えずにまっすぐに。

――最後に読者の方へメッセージをお願いします。
言われたこと観たことが全て財産です。僕自身、演能会ではお客さんが休憩しようと見所を出て行くこともあったお狂言の間も、真剣に観たことがとっても後になってためになっています。能楽師として活動するようになってから、一度、喜多流の「松風」をこっそり観に行ったら後で先輩に怒られました(笑)。「どこ行ってたんだ!」と。お能を観ることができなくなっちゃったのは残念ですね。観ることが本当に好きだったんですよ。貴重な経験をいろいろしましたから。名人のお能を観て感動したり。そのような感動体験を一、二度でもやっちゃうとね。もうダメなんですよ。他のものじゃ変えられない。お能の持っている「力」というかね。みんなにそれがちょっとでも伝わってくれたらいいなと思っています。

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日時:3月3日(水)、インタビュー場所:稽古舞台、撮影場所:稽古舞台、3月月浪能「高砂」に向けて


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東川光夫  Mitsuo Higashikawa
シテ方宝生流能楽師
1953年、東京で生まれる。1976年入門。18代宗家宝生英雄に師事。初舞台「禅師曽我」(1977年)。初シテ「吉野静」(1980年)。「石橋」(1987年)、「道成寺」(1991年)、「乱」(1993年)、「翁」(2007年)を披演。


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