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「私の死体を探してください。」   第13話

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 池上さんのせいで嫌なことを思い出してしまった。池上さんはまだ何かを探している。こういうのも墓場泥棒と言っていいんじゃないのか?

「池上さん、もういいだろう?」

「よくありません。シリーズのプロットが全然見つかりません!」

 妊娠していないと言っていたのだから、泣いたり怒ったりイライラしたりはそのせいではないだろう。今日の池上さんは感情がジェットコースターみたいだ。麻美のことがよほどショックなのだろう。きっと落ち着いたら僕に謝罪するはずだ。僕との関係も考え直すに違いない。

「森林先生がプロットを作ったのを見かけてないですか? いつ、作ったのか分かればまだ……」

「僕が麻美の仕事に関わっていないのは君が一番よく知っているんだろう? 僕には分からない。それに麻美がここに来たのは僕が知る限り、一ヶ月以上前だから、その新作の小説がでてきたこと自体が驚きだよ」

 僕の嫌みは理解できたようだった。

「東京のマンションに森林先生がいつもお使いになっているパソコンはあると思いますか?」

「分からない。帰ったら確認してみるよ」

「いますぐ帰られますよね?」

「明日には帰るよ」

「そんな、悠長な……。いますぐ帰って警察に行方不明届を出すべきです」
 僕はほとんど水になったグラスを傾けた。せっかくの山崎18年が台無しだった。

「これじゃあ、車で帰れないだろう。池上さんが運転してくれるっていうなら別だけど、池上さんはたしか運転はできなかったよね? 違うかな?」

「確かに私は免許をもってません……。でも、私と一緒にバスか特急で帰りませんか? 車はまたこちらに来たときに乗って帰ればいいじゃないですか」

「もし、本当に麻美が行方不明か死んでいるとしたら、ここにはなかなか戻って来れなくなるはずだ。行方不明届のことは母さんに頼んでみるよ。母さんも麻美のことは心配しているみたいだから」

 池上さんはなんとしても今日中に東京に帰るよう、僕を説得したかったようだった。でも、僕はそうしたくなかった。だからわざと池上さんを怒らせるようなことを言った。

「君が一番心配しているのは麻美じゃなくて麻美が作った人気シリーズのプロットだろう? 万が一僕が見つけたとしても、ちゃんと君に渡すと約束するよ」

「プロットが一番なわけじゃありません!」

「本当にそうかな?」

「そんな風に言うなんて最低です」

「でも、実際プロットが他の編集者の手に渡ったら君は困るんじゃないの?」

「それは……」

「だいたいその新作の原稿だって持って行っていいなんて、僕はまだ一言も言ってないこと、君は気づいてる?」

「まさか……」

 池上さんは僕を睨みつけた。なだめすかしたり、ご機嫌取りをするくらいしか、取り柄がない女だということを完全に忘れきっている顔だ。

「冗談だよ。僕と君の仲だろう? 原稿は持って行っていいよ。君の言い分だと、それが出版できるかはかなり怪しいものだけど、君には必要なんだろう?」

「……ありがとうございます」

 池上さんはいかにもしぶしぶといった態度だったが、僕に頭を下げた。

「読まれますか?」

「その原稿を? いや、やめとく」

「そうですか」

 池上さんは、彼女がまるで身体の一部のようにいつも持ち歩いている、キャラメル色の革のブリーフケースからUSBを取り出してデスクトップに読み込ませた。

「新作の原稿だけにしてくれよ?」

「分かっています」

 僕は池上さんが他のデータを持ち帰らないことを確認してから、デスクトップのパスコードをパソコンデスクの近くにあったメモ用紙に書き込ませた。

 僕に今すぐ東京に帰るよう説得するのを諦めた池上さんは編集部に一本メールを送ってから、ようやく帰る気になったようだった。地下室を出てリビングのパノラマサッシの方を見るとかなり日が傾きはじめているのが分かった。今日中に東京に帰りたいなら、今すぐここから出発した方がいいだろう。

「東京に帰り次第、ご連絡いただけますか? 森林先生のいつも使っていたノートパソコンが東京の自宅にあるか確認したいので」

 玄関まで送ると池上さんはそう言った。

「ああ。もし、本当に麻美が覚悟の上で失踪しているとしたら、パソコンをどうしていくかは想像できないけどね」

「正隆さんは、どうして森林先生と結婚なさったんですか?」

「さあね。ちょうどいいタイミングに一緒にいたからじゃないかな」

「森林先生のことを最初から愛していたわけではないんですね?」

「今、そういうことを話し合いたくないね」

「可哀想」

「え?」

「いいえ、なんでもありません」

 池上さんはようやくいなくなってくれた。

 僕はリビングに置いたままになっていた溶けきったグラスの中身をキッチンに捨ててから、ウイスキーを今度は氷なしで注いで、一気にあおった。喉が焼けるような感覚を味わうと、めまぐるしく動いていた頭がゆるやかになっていき、冷静さが戻ってきた。

 麻美はどこへ消えたのだろう?

 本人が書き残したとおり、本当に死んでいるのだろうか?
 どちらにせよ、麻美がいなくなった今、僕にはやることが山ほどある。
 冷静に考えなければいけないが、まずしなければいけないことが、自分の母親に電話をすることだと気づいて、この冷静さが束の間になる可能性にがっかりした。

 僕は三回深呼吸してから、母さんに電話をかけた。
 この時の僕は、池上さんが持ち帰った原稿が、どんな波乱と混乱を巻き起こすかなんて少しも考えていなかった。



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