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「私の死体を探してください。」   第16話

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 五月の上旬、三か月前だ。いつものように打ち合わせで森林先生のマンションに行った時だった。一通り打ち合わせが終わって私が帰ろうとすると、森林先生はいたって冷静にこう言ったのだ。

「池上さん、正隆さんのよく行く店の中には私もよく行くお店もあるの。できたら、あなたがよく行くお店に誘導してもらえないかしら?」

 背筋がぞうっとして、身体が硬直した。

 森林先生はそんな私に無言で私と正隆氏の会話を盗聴している録音データを再生した。

 羞恥心で全身がカッと熱くなった。

 先生はいつから知っていたのだろう?

 動かぬ証拠に私は何も考えずにその場で土下座をしていた。

 土下座なんて人生で一度もしたことがなかったのになんの躊躇いもなかった。

「本当に申し訳ありません。自分でもどうしてこうなったのか分かりません。正隆氏には二度と会いません。先生の担当から外してもらっても構いません。何でもします。許してください」

 カタカタと小刻みに震えていた。こんな風にこっけいなほど、震えたのは子どものころ気温が寒かったのに強行されたプールの授業以来だ。抱いていた感情は恐怖の一色だった。

 でも、森林先生の反応は私の予想とはまったく違っていた。

「あら、やめて。そんなつもりはないの。別に池上さんを責めようと思ってないんだけど、おせっかいな人がいて、わざわざ私に教えてくれるの。それじゃあちょっとね。噂が広まるのは困るし。池上さんだって困るでしょう? 不倫叩きって行き過ぎだと思うけど、今はそういう風潮だし」

「別れます! 私、正隆氏のことはなんとも思ってないんです」

 森林先生は首を傾げてじいっと私の顔を見て、しばらくすると声をあげて笑った。

 怒りをぶつけられると思っていたから、予想外の反応でなんだか力が抜けた。

「なんとも思ってないの?」

「はい」

「だったらどうして? すごくハイリスクな相手でしょう?」

「それは……」

 森林先生となかなかお近づきになれなくて、焦ったが故の暴挙とは、とても言えなかった。なんと言えばもっともらしいか考えたけれど、本当の気持ちがあまりにも強くて何も言い訳が見つからなかった。いっそ、正隆氏のことが好きだと言えばもっともらしかったのかもしれないけど、そんなことは嘘でも口にしたくなかったし、いくらなんでも、そう言えば森林先生だって冷静ではいられないだろう。

 ぐるぐると同じところを何周も考えるばかりで、言葉が何もでてこなかった。

 私が困り果てている様子がよほど面白かったのか森林先生はまた笑った。

「いい。なんとも思ってないんだったら、責めても仕方がないし、そのかわりね、私、池上さんにやってもらいたいことがあるの」

「え?」

「さっき、なんでもするから許してって言わなかった?」

「え? ああ。はい。言いました」

「そうだよね。だったら……今すぐお願いしたいことがある」

「私にできることがあったらなんでもします」

「そう? よかった。それじゃあ正隆さんに小説を書くよう励ましてもらえないかな?」

「え? どうしてですか?」

「私がそうして欲しいから。ね? してくれるでしょう?」

 私は疑問に思いながらも同意した。

「それから、私が指示したタイミングで、正隆さんに『妊娠した』と嘘をついてもらいたいの」

 私は驚きのあまり一瞬固まってしまったと思う。

「ええっ!! どうしてですか?」

「どうしてなのか、考えてみて?」

 森林先生は艶やかな微笑みを浮かべていた。それは打ち合わせで「ああ、ひらめいたかも」とか「いい感じで繋がったかもしれない」とか「これっていい案だと思うんだけど」とか「こういうのはどうかなあ?」とか言うときの森林先生の微笑みに似ていた。

「そのかわり、約束してあげる。私の担当は絶対外さないし、私は池上さんが正隆さんと不倫関係だってことは死んでも言わない。ね? いい条件でしょう?」

 森林先生とあんなやりとりがあってから私は先生に言われた通り、正隆氏に小説を書くように勧めて、励ました。それからさらに、私は先生から指示を受けて、正隆氏に「妊娠しました。どうしたらいいのか分かりません」といった内容のメッセージを七月のはじめに送った。

 正隆氏は正隆氏らしい屑っぷりで私の深刻なメッセージを既読スルーしていたが、既読スルーから二週間もたってから「ちょっと待って欲しい」とひとことだけメッセージが来た。ここで何も返さないのはあまりにも不自然だったので、何度か電話をかけてみたけれど、正隆氏は一度も電話にでなかった。

 正直、本当に妊娠していたらこんな態度をとられた時点で普通の人間なら怒りで半狂乱になるところだ。

 でも、実際は妊娠していないので、ああ、こんなものだろうなあとしか思わなかった。

 ひょっとしたら、森林先生は正隆氏ときっぱり別れるための手段を私に授けてくれたのかもしれないと思った。

 そして、もしかしたら本当に正隆氏に「妊娠した」と言った女が過去にいて、正隆氏がどんな態度をとるか森林先生は経験済みだったのではないだろうか? と思うとなんとも言えない気持ちになった。

 そして、更に二週間後、森林先生は自殺をほのめかすブログを書いて行方不明になり、私は山中湖の別荘に向かったのだ。


「池上、どうした?」

 神永編集長に呼びかけられてハッとした。

 私たちみんなが森林先生の小説の中にいて何か役割を与えられているとしたなら、私の役割はなんだろう? それは分からないけれど、本当にこんな不倫というゴシップを暴露せずにいてくれたとはとても思えない。

「池上さん、次はあなたよ」

 と森林先生が私の耳元でささやいているような気がした。 

「いいえ。なんでもありません。神永編集長は森林先生に暴露されたくないことはないんですか?」

「あるよ」

 即答だった。でも、その素早さから、後ろめたさのレベルは私とはまったく違うだろうとも思った。

「まあ、誰にだってそれはオフレコにしといて欲しいってことはあるだろう? 打ち合わせだってネタを提供するために自分の話をすることもあるわけだからな。お互いブログに登場しないことを祈るしかないか」

 神永編集長はそれでいいかもしれないが、私は神頼みではあまりにも危険だ。

 やっぱりどうにかあのブログを閉じる方法を模索しないといけない。

「森林先生はこの作品を最後まで掲載するおつもりなんでしょうか?」

「その可能性は高いな」

「編集長は森林先生が生きていると思いますか?」

「その答えはさっきほとんど答えたも同然だ。森林麻美は死ぬか死ぬ覚悟がないとできないことをやっているよ」

「ブログ荒れたままですけど、私も小説を読んでもいいですか?」

「閉じられないなら、どうしようもない。状況だけは把握しておけ。たぶん、また更新されるだろうから」

 私は森林先生の原稿をプリントアウトしながら、正隆氏を引っ張ってこれなかった自分に改めて腹が立った。

 ブログをどうにかしないと生きた心地がしない。正隆氏は怖くないのだろう。少なくとも彼が現在持っていない仕事や社会的な地位がなくなることはないのだ。

 正隆氏はほとんど無敵の人だ。それが怖くて私は言いなりになっていた。

 それでも、明日すぐに連絡しよう。

 そう心に決めて私は原稿を読みはじめた。



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