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私を解放に向かわせるもの

随分前 私がパートリーダーのような立場にいて 倉庫の一角を仕切っていた頃 私はその日 ある出荷ミスを調査していました 調査の結果 作業者の一人が出荷工程での重要なチェック作業を飛ばしていたことが分かりました しかも故意に それが行われていたと考えられたのです 私は当の作業員に 事実をなるべく丁寧に伝えたうえで なぜ ルールを無視したのか と問いました その人は 素直に謝罪し 反省していましたが こう答えました 「急いで…と言われたものですから つい…」 私は 正直ショック

    • ほんとう

      先々日から 咳をしだした子供が 今夕に 本格的に発熱して あまり食べず 飲まずだが とにかく夜は 寝てくれて よかった なにを与えようと いずれ身体を治すのは 自身の力だから やきもちしながらも 見守るしかない 眠りは 子をつつみ 癒す 夜中になり 八木重吉の詩を読んでいる 中原中也の詩もよむ 啄木も 津村信夫も 子を持った彼らの 素直な子への愛情を よむ 私も 素直に ほんとうのことを喋れるようになりたい

      • 私が決めたこと

        幼い頃に 戦争というものを知った それは知識ではあったけど 小さな体に 不思議に 一種の体験のように 刻まれた 多分 戦争は 死 というものに関係する知識で だから 幼心に真剣に それを学ぼうとしたのかもしれない 学び得るためには 体に訊いてみる 擬似的にでも   幼い私には 戦争とは  世界に対して抱く 理不尽さ 不条理さ 狡さ  そんな事ごとを象徴する 人間の行いの一つに思えた 大人がどんなに 世の善を 道徳を説いても 戦争の事実は オセロのようにそれらをひっくり返し

        • 私の七月

          七月は コロナの関連で休園が多くて 職場にはあまり行けず かといって 平日を家族と 何処でも行けるご時世でなく 近場の公園や 川縁を てくてく散歩していた 低い葉が茂るところで いくつもの蝉の抜け殻を見つけては その一生について考え耽ったり 雨の降る前に 生垣にとまっている四 五羽の蝶をじっと見たり 川の浅いところで泳ぐ亀や 鴨の親子や 子供のこぼしたジュースに集まる蟻や そんな事ごとを 見つめては ゆっくり  時に考えたり 何も考えなかったり そんな時間を過ごしていた

        私を解放に向かわせるもの

          喜びに揺れる

          科学的概念は つまりは言語や数といったものは 多数の人間の おのおのの世界認識の その差異を等しいものに向かわせてくれるかのように 振る舞う 世界は他者と共有できるものである と おそらく 人間同士で本当に議論可能な議題というのは 感覚器官に依拠したものではなく 多数によって定義づけられたかのように思われる事象についてなのだろう つまり議論によって導き出される真実は 我々が定義した概念の中にしか無い とも言える ただ 近似的にも事象を説明できることは 大変な素晴らしく 喜び

          喜びに揺れる

          嘘をつきながら美しいもの

          言葉をおぼえる 一般性を学ぶ 誰かと通じ合えること 他者とルールを共有すること そのルールを信ずること けれどもし そのルールが間違いだったら? その言葉が嘘だったら? ある人は  言語そのものは真であって それを前提に成り立っているわけで つまり自己言及的パラドックス この文は偽だ といったことは 言語的には矛盾にならない と言う 疑いなく学んで 学んでいって じゃあ人はどうやって 嘘をつくことをおぼえるの? 誰かが嘘をついてるって どうして分かるようになるの? いつか

          嘘をつきながら美しいもの

          私が戻る

          手塚治虫の漫画 「火の鳥」に登場するムーピーという生物は 形はスライムのような不定形で 知性はあり 性別もあり 人間とテレパシーのような方法で会話ができ 恋愛もできた 私は 私も 世界中の人も みな ムーピーのようであればいいのにと 思っていた それは確か小学生の頃のこと 社会的な性の役割について 考え 悩んでいた頃のこと 私にとっての(他の人もそうかもしれないが)思春期の思考は 今から分析すると大変複雑で 前提条件の異なる幾つもの論理 倫理を一手に束ねて 同時に解決しよう

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          食べて寝て それだけで

          子供が生まれて一年半が過ぎて あの人はまだ 言葉はうまく喋れないのだけど そういえば それをあまり気にしたことがなかった なにを考えているのか 全ては分からない それはお互い様で どちらが偉いわけでもなし イヤイヤと 音声で 身体で 表現し始めると  あら そんなふうに思ってたのね 考えてたのね と 分かり 嬉しくなる 言葉を覚え始める様を見て 驚きや 嬉しさもありながら  この世の理を知ってしまったか ううむ と さみしい気もする 不可思議な存在のまま いてもいいのに

          食べて寝て それだけで

          モンタージュの世界

          電車に乗る ほとんど利用しなくなった コロナ禍のせいだけではなく  電車に乗って どこかに行くような用事が 少なくなった 久しぶりの車内で 目にするのは 私にとっては大量の広告 興味を持って  じっくりと けれどすぐに もしかしたら 何十年と変わらない景色なのかも と感じ始める 有名人の顔ぶれについて 分からない自分になった だから 広告に映る男女の顔の 有名無名が あやふやだ そんな男や女の顔が 商品の写真と同じ画面上にあり 彼らは 広告の中で 商品に触れてさえいないこ

          モンタージュの世界

          夢の中のワイン

          コロナワクチン接種後  おおよそ24時間経ったところで 倦怠感がピーク それ以降は 緩やかな上り下りを繰り返し 全体的には通常運転に向かう 日中は 子供のことは任せて 少し眠ったり キッチンの収納を考え直したり 夕方 簡単な買い出をしたり よいお天気だったので 私も家族と散歩に行きたかった ご飯を食べ 皆寝ついた後は 体調は元通り 音楽を聴いたり 本を読んだり 養老孟司「唯脳論」を読み進める 1989年に著された本なのだけれど 今現在に於いても新鮮な風 自己言及性の

          夢の中のワイン

          私がゆるせる私

          チャップリンによる1947年の映画『殺人狂時代』(原題:Monsieur Verdoux) の中で チャップリン自身が扮する殺人者ヴェルドウの口から語られるのは こんな言葉たち 「戦争はすべてビジネスであり 大量殺人は国家が奨励しているのです 私などはアマチュアです」 「1人殺せば犯罪者になり 100万人殺せば英雄になります 数が行為を神聖化させます」 …… 初めて観た10代の頃に この言葉たちは もう馴染みのあるものに思えた 世界(私が見るところの世界)の矛盾について 考え

          私がゆるせる私

          離れていても

          夕方 コロナワクチン 3回目接種 夜 特段の身体の異常 感じられず 針を受けた左腕の痛みもおさまる ワイヤレスキーボードを購入した 数年 職場以外でキーボードを打つことがなく 自宅ではiPhone iPadが主であったけれど 頭の中に流れる言葉を つかまえて まとめていくには それらだけでは 私には  なんだかスピードが ぴったり合わなかった ただ言葉を読んだり 想起する事ごとを 書き纏めるということ それだけのことが 私を癒してくれるのではないか と思った その感触を

          離れていても