喜びに揺れる

科学的概念は
つまりは言語や数といったものは
多数の人間の
おのおのの世界認識の その差異を等しいものに向かわせてくれるかのように
振る舞う
世界は他者と共有できるものである と
おそらく
人間同士で本当に議論可能な議題というのは
感覚器官に依拠したものではなく
多数によって定義づけられたかのように思われる事象についてなのだろう
つまり議論によって導き出される真実は 我々が定義した概念の中にしか無い とも言える
ただ 近似的にも事象を説明できることは
大変な素晴らしく 喜びを感じる
人間の喜びの その一つは ここにあるのかもしれない

しかし私は今一度 時々でも
自分だけの認識 理法に還ってみたい
自らの理法を知ることは  自らの幸せのためにあるように思えて

世界は揺らいでいる と感じる
揺らぎ自体が 世界なのか
揺らぎは波の性質
私は揺らぎの中で 偏在している何かを認識する
様々な感覚器官によって得られる情報…偏り具合やその変化性(時間)…を認識する
「次元」は偏りを認識するための座
世界は因果を内包しない
人間が因果を定義する

偏りは 変化しながら しかし偏り続けるように思える
それは因果を人間が定義するような ある種の錯誤なのか
 
すべての偏りの変化は一回性であるように思う
にも関わらず 偏りに回帰性を「感じさせる」ことが 偏りを偏りたらしめる
それは 生命のように
又それは
地上で 芸術と呼ばれているような事象のように

偏りはランダムな揺らぎの中から
色や
音などを生む
そして偏りは
人間を介して
他の空間を 時間を 同じような偏りに変える

それは人間が心揺さぶられることによって

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