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「許し」と「正当化」

先日、『幸せへのまわり道』という映画を見た。

トム・ハンクスが主演で、聖人のようなTVタレントを演じていた。ミスタージェームスとか何とかいうそのタレントが出ている子供向けの教養番組は、静かなピアノ音楽が流れ、トム・ハンクスが穏やかな調子でTVの前の子供たちに時に哲学的ですらある内容をやさしく語りかけるという、癒しに満ちたものだった。

映画自体も「許すこと」がテーマとして展開され、チラシのレビューにある通り「今にピッタリ」の作品なのだろう。この映画を観たから、というわけではないのだろうけれど、いつの間にか巷では「許しムード」、「いい人になろうムード」が漂っているように感じる。カフェやレストランに行っても、お店の人の態度が妙に優しく親切になっているような気がする。

みんなが穏やかになって平和に日々が送れるなら、それは僕にとってもこの上ない幸運だし、異議を唱えるつもりはない。でも今回はあえてこの「許し」について屁理屈をこねてみたいなあと思うのです。

ここに一人の経営者がいるとする。この人は世界中で安価なサンドイッチを売るビジネスを展開している。お金がない人でもサンドイッチを食べられるように、世界のあちこちから安く材料を仕入れ、輸送中に腐らないようにいろんな薬品で処理を施す。この人のサンドイッチは世界中の人に好まれ、商売はどんどん拡大していった。

するとそれに対して批判する人たちが現れた。ある学者は言った。
「あんなに化学薬品まみれでは人の健康に影響を及ぼす」
また、ある環境保護団体の人びとはこう抗議した。
「原料の輸送のために多くのCO2を排出して、温暖化を促進している」
などなど。

それでもこの人は自分のビジネスをやめなかった。世界中の人びとにサンドイッチを届けることが自分の使命であり、正義だと思っていたからだ。それに資本主義社会ではビジネスでお金を儲けて事業をどんどん拡大していくことが「善」だから。でも、批判を無視したわけではない。できるだけ工夫を施して、人体に害の少ない薬品や添加物を使うようにしたり、寄付をして環境保護や世界平和に貢献しようともした。でも大きくやり方を変えることは出来なかった。

そしてある日、謎の病気が流行り出した。世界中の人が苦しみ、困難に直面した。そしてみんなが辛い思いをする中で、誰かが言い出した。
「今は人間同士いがみ合っている時ではない。お互いに許し、手を取り合って協力しようじゃないか」
人びとは突如としてこれまでになく寛大にふるまうようになり、いいんだよ、それでいいんだよ。人類皆兄弟さ。とでもいうような博愛主義者がにわかに急増した。

そんな中で、経済的にも苦しい状態に陥っていた人々はあの経営者の安いサンドイッチをますます食べるようになり、彼の商売はさらに儲かった。病気が流行る前に徐々に高まりつつあった批判の声は、「許し」ムードの中でかき消された。

その後、サンドイッチばかり食べすぎて肥満し、健康を損ねた人々が多い国では謎の病気の患者が急増し、温暖化がさらに加速した地球環境は異常をきたし、多くの自然災害が引き起こされることになった。

さて、皆さんはこのたとえ話を読んでどう思うだろうか。

あのファストフードチェーンを悪者にしたいのではない。僕が考えたいのは、「許すこと」と、「なんでも正当化すること」というのは違うんじゃないかな、ということなのだ。

今、僕たちが許しムードの中で大事にしたいことっていうのは、特定の人や何か、さらには自分自身を「責め立てないようにしよう」っていうことではないかな。

コロナ禍の直後に紙ストローを使いだしたコーヒーチェーンや、値段は変わらないのにどんどん商品が小さくなっていくバーガーチェーンを、そしてそこで働く人たちを責め立てたところで事態は解決には向かわない。僕たちはもっと建設的なことに頭を使わなくてはならない。

それはそうなんだけれども、だからといって「すべてを許す」ということは「なんでも良いんだ」と「正当化」することとは違うことだとわきまえておく必要もあるんじゃないかと思う。問題は、特にこれから何十年も生きていく予定の僕たち若者には嫌でも向き合わなければならない問題は山ほどあるのだから。

「良い」「悪い」という善悪の判断と、「許すこと」とは別の次元で捉える必要があるのではないだろうか。

許すこともそうだけど、今僕たちが大切にすべきことは「反省」なんじゃないだろうか。反省と書くとなにか悪いことをしてしょんぼりしているような感じがするけどそれとは少し違って、レフレクション、今までを振り返るということ。

そして「ふりかえる」中で自分を責めて卑屈になれというのではない。でも「正しい」んだ、と正当化するのでもない。あらゆる存在には価値があるのだから、それぞれに自信や尊厳は保っていただいて、そのうえで「ふりかえる」。「良い」「悪い」の判断はしなくていい。

社会や経済の在り方、もっと身近に家族や友人、ご近所さんとのかかわり方、買い物の仕方、生活全体。などなど。そして反省する中で、これまで自分が「当たり前」だとしてきた判断や選択をもう一度検討する。他の選択肢を考えてみる。買っては捨てていたものをレンタルで済ませられないか、いつも車で行っていたところに電車やバス、自転車で行ってみるのはどうか。

それからできたらこれまでの「当たり前」とは別の選択を実際に試してみる。それで自分のこころがどう感じるか観察する。今までより心地よいようならそのやり方に変えればいいし、そうでなければやっぱりこれまで通りにしても、また別の選択を試したっていい。

こうやっていろんな可能性を試していくことが、変わること、変えることを余儀なくされている今の僕たちにとって有効なんじゃないか。

チェーン店の三輪車で配達アルバイトをした翌日の今日、僕はこんな屁理屈をこね回していたのです。


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