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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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#長崎原爆

長崎医科大学・角尾学長らの終焉の地であった~長崎市滑石・太神宮救護所

長崎市北部に横たわる滑石(なめし)地区にある太神宮は、その名の割りにこじんまりとした神社なのですが、住人にとっては初詣など馴染みのある場所です。 これは昭和19年に鳥居脇の灯篭あたりで撮られた写真。学徒出陣する仲間を見送る記念として撮られたもののようです。この地区にとっての中心であったことが伺えます。 また滑石地区における教育の出発点が、うら寂しい畑の中のこの小さな社でした。太政官布告により明治6年、平宗小学校の仮教場が開かれ、周辺地区児童への教育が開始されました。この頃

原爆被爆前の跡 ~ 私が幼い頃過ごした住吉チトセピア東の、坂段に挟まれた緑地帯

長崎市住吉にあるイオン系の商業施設、チトセピア。 ここには、私のふるさとである公営アパート群がありました。 原爆が投下された時、この辺りにもマッハステムという強烈な爆風が吹き、壊滅的な被害を与えたのですが、当時高圧線の下あたりは水田であり、建物などの損壊は無かったようです。 戦後、その水田が宅地として整備され、昭和26年頃、私の住んでいたアパートも建てられたのですが、この高圧線の下だけは鉄塔・電線が撤去された後も、宅地とはならず、公園や緑地として、今に残っているというわけ

長崎市最古のRC造(鉄筋コンクリート)・橋梁「 新橋 」2023現在

鉄筋を入れたコンクリートの工作物・建築をRC造と呼びますが、長崎市に残る最も歴史の古いRC造の橋梁が、長崎県庁に近い、岩原川の河口に架かる「新橋(或いは岩原新橋)」です。 架橋が大正4年(1915)で、世界遺産で名高い、軍艦島の最古のアパートである30号棟よりも、一年古いRC造の工作物です。 この橋梁のことが気になっていたので、先日用事で近くへ行った際に、現在の様子を確認してきました。 ご覧のように、橋梁と言っても、通行の為の用途は、ほぼ無く、店舗兼住宅の下という状況のた

「忘られぬ あの日 私の被爆ノート 917」上

高等女学校は、現在の上長崎小学校がある場所。 爆心からは、立山の山かげとなっているが、これだけの爆風が襲っていることを改めて知ることができる。 三菱長崎兵器製作所茂里町工場は、日本で唯一の民間兵器会社として大橋工場(現・長崎大学文教キャンパスの場所)とともに、爆心地に近い場所にあり、当時2万人近い若者を中心とする従業員がいた。 当時の日本軍の大本営は、アメリカ軍の原爆投下特殊部隊の動きを掴んでいたにもかかわらず、広島・長崎とも現地に警報などの情報を送らなかった。結果、空襲

「忘られぬ あの日 私の被爆ノート 1006」

長崎市に生まれ育ち、これまで膨大な被爆体験を聞いたり、読んだりしてきたが、この記事は、とても印象深く忘れられないものの1つ。 かつて教師であった私にとっても、なにかしら教師の虫の知らせというのか、予感というのか、不思議なものを感じる体験談である。 また、西浦上小学校は私の母校であり、その母校にこのような教師がいたということも、胸の奥底に深く染み入るものがある。

原爆により全壊も、職員の必死の作業で資料消失を逃れた ~ 長崎市立西浦上小学校

1945年8月9日の原爆投下により校舎が全壊した主な学校は、私の母校である西浦上小学校、西坂小学校、そして瓊浦中学校などですが、瓊浦中学はともかく、西浦上小や西坂小が「被爆・被災校」として紹介されることはまずありません。 私などは、低学年のうちに転校したとはいえ、西浦上小に在籍していたにも関わらず、同校が全壊した被爆校であることも、慰霊碑が建っていることも耳にすることはありませんでした。不思議なことです。 何度もこの前を通りながら、一度もこの碑に手を合わせることをしなかった

学舎は果たされなかった多くの志の上に立つ ~ 長崎大学・文教キャンパス

長崎大学・文教キャンパスの純心学園に接するあたりに残された標柱です。そこには「兵器」と刻まれています。 現・長大文教キャンパスは、原爆により壊滅した「三菱長崎兵器製作所大橋工場」があった場所でした。 ここは爆心地からわずか1.3kmの場所にあたります。 画像は米軍機から撮影された同地です。白く残った道路でかろうじて場所が特定できるだけとなっています。 下は昭和19年に大橋兵器工場の第三機械工場の正門前で撮られた学徒たちの記念写真です。 ・・地下足袋にゲートルを巻いた若き学

被爆時、救援の最前線となった 長崎本線・道ノ尾駅

長崎に原子爆弾が投下された後、県内や他県からも救護隊が派遣されたのですが、浦上一帯が壊滅した為、この小さな駅が負傷者を移送する最前線の駅となりました。 この道ノ尾駅は、爆心地から約3.5kmの距離にあり、被爆時は、壁が落ちたり、窓ガラスが飛散したのですが、幸いにも駅舎に大きな被害がなかった為、駅前広場に臨時の救護所が置かれ、救援列車の基点となりました。 当然、この救護所には、うわさを聞いて辿り着いた半死半生の負傷者であふれました。 この駅舎は被爆遺構であり、「被爆」という

本格的な本土空襲は長崎を含む九州北西部の工業地帯・軍事基地より始まった

のどかな長崎港と街の風景。その中にぽつんと見える「長崎市のランドマークで、また貴重な歴史の証言者(シンボル)」・・・・。 何だかわかりますでしょうか? それは三菱長崎造船所の150トン・ハンマーヘッド型クレーン(起重機)です。 スコットランド、マザーウェル・ブリッジ社製のこのクレーンは明治42年に設置され、明治・大正・昭和・平成・令和と5つの時代をまたぎ、今も尚現役として働いています。 そして何より度重なる空襲と原爆とをくぐりぬけて、ここに立ち続けています。 長崎では原爆

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ②

若草町を後にし、今回爆心地よりわずか800mという至近距離にある被爆木を探します。800mという距離はちょうど山王神社の大クスと同じ距離にあたります。 竹の久保町にある引地さん宅の柿の木とカシの木です。引地さん宅は活水学院中・高等学校と長崎西高校のグラウンドの間に位置しています。 カシの木の方は、比較的すんなりと見つけることが出来ました。 このカシの木は被爆時、中ほどからへし折られたそうなのですが、2年ほど経ってからまた芽吹いたそうです。向かって右側が爆心にあたり、やはりそ

今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ①

当初のタイトル構想は、「被爆樹木を訪ねて」でしたが、事後に「会いにゆく」変更しました。 樹木は動物とは勿論違いますが、今回対面して「生きている」というインパクトが非常に大きく感じられましたので。 長崎の被爆樹木と言えば「山王神社の大クス」が圧倒的に有名で、ガイドブックに掲載されたり、書物にも多く登場していますが、もちろん同じ熱線と爆風に耐えながら今も尚立ち続ける被爆木は他に何本もあります。しかし、残念ながら殆ど知られることがありません。事実、私ですら今まであまり惹かれるもの

原爆の遺構は、私たちの住んでいる街そのもの

毎年、多くの修学旅行生や外国人ツーリストの方々が長崎原爆資料館や被爆遺構を訪れてくださっているようで、市民として、それは大変うれしいことだと思います。 しかし、皆さんタイトなスケジュールの中での訪問となることが多いせいでしょうか、資料館の展示やパンフレットに記載されている遺構だけが、現在残されているものだと理解されているように思えて仕方ありません。 「広島の原爆ドーム」のようなシンボル的な遺構が長崎には無い分、訪問者には見えづらい点はよく理解できますが、投下後70年以上(2

被爆直後の写真 「さまよえる兄弟」のこと

夏が近づくと街に現れる原爆関係のポスター。決まって使われる写真の中で、最もよく目にする1枚が、下の「弟を背負う兄」のもの。 モノクロでわかりにくいのですが、幼い弟の頭にはべっとりと血のりがこびりついています。誰もが「この男の子が重傷を負った時の出血だろう」と思うでしょう。 現に写真を撮った山端庸介自身もメモに 「長崎駅付近8月10日朝7時頃。両親を見失った少年兄弟、弟の方は頭部の負傷による出血で、それも暑さのせいでヒカラビている。もちろん顔を洗う余裕とてないのであろう」 

ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑

長崎市浦上地区にある西町踏み切り。何気ない風景の中を多くの人や車が通りすぎていきます。 しかし、この画像の中に「ほとんど誰にも知られていない、悲しみの原爆の碑」があるのです。 線路の脇に立つ、小さなお地蔵さん。 ・・・・気付く人さえいないかもしれません。 このお地蔵さんには、原爆に関する、こういう悲しいエピソードがあります・・・・ 『・・・そうして私たちは学校から帰ると、アメリカの兵隊さんが大きな穴を掘って残飯を捨てますから、それを急いで拾いに行って分けあって食べまし