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原爆被爆前の跡 ~ 私が幼い頃過ごした住吉チトセピア東の、坂段に挟まれた緑地帯



チトセピアから見た坂段に挟まれた緑地



桜の木が立つ辺りの上を、被爆前、高圧電線が通っていた。

長崎市住吉にあるイオン系の商業施設、チトセピア。
ここには、私のふるさとである公営アパート群がありました。

原爆が投下された時、この辺りにもマッハステムという強烈な爆風が吹き、壊滅的な被害を与えたのですが、当時高圧線の下あたりは水田であり、建物などの損壊は無かったようです。

戦後、その水田が宅地として整備され、昭和26年頃、私の住んでいたアパートも建てられたのですが、この高圧線の下だけは鉄塔・電線が撤去された後も、宅地とはならず、公園や緑地として、今に残っているというわけです。

実はこの緑地、東西にわたり、けっこう残されているのですが、私がこの部分を思い出深いと思うのは、幼い頃の記憶が遺されている場所であるからなのです。

ご覧の通り、結構な段数ですので、西浦上小学校への登下校で通ることは無かったのですが、この上には児童公園もあることで、よく遊びの時に通った思い出があります。
小学校1年生か、そこらの頃、うちの小さい子数人が遊びに来たことがあって、そのお母さんたちから頼まれて、ちびっ子数人を連れて、外へ遊びに連れていったことがありました。
アパートの中にある児童公園は、子どもでいっぱいであり、また小さい子には遊具はまだ危ないということもあったので、私はその子たちを連れて、その高圧線あとの緑地横にあった階段の所で遊ばせることにしました。
階段のすぐ横の側溝が、当時コンクリートの水となっており、まるで急な滑り台のようにもなっていたので、そこで私はちびっ子たちを遊ばせようとしていたのでした。
自分がやってみせた後、ちびっ子たちにもやってみるようにすすめたのですが、やはり無理があって、一人の子が、どこかを痛くして泣きだしてしまいました。
私は、その子が可哀そうというよりも、とっさに「その子のお母さんから、怒られる!」という思いが先に立って、何とかその子を泣き止まそうとして、確か「ヘンな踊りをしていると~、段々痛みがなくなるよ~~!♪」みたいな適当なメロディーで歌いながら、変顔と変な踊りをその場で踊ってみせました。
そうすると、その変な踊りと歌が功を奏し、その子や他の子は笑い出しました。
「よかった!これでオレは、怒られない!」心底からほっとしたことを覚えています。



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