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「忘られぬ あの日 私の被爆ノート 1006」


被爆当時13歳
西浦上国民学校高等科2年  長濱キミ子さん(84)  =長崎市=


爆心地から1.8kmの長崎市家野郷(当時)で被爆

当時女子生徒に与えられていた役目は食糧増産に向けた農作業で、土日も休みなく働いていた。それが普通だった。
「日本は神の国。最後は神風が吹いて戦争に勝つ」と教えられていたから。学校に行くと必ず「欲しがりません勝つまでは」といった二つの言葉を言ってから仕事に取り掛かっていた。

あの日だけは違った。午前10時ごろ学校に着くと、担任の田中満枝先生が教室に来ていきなり、「あなたたちはすぐに帰りなさい」と言う。
「空襲警報も鳴っていないのにおかしかね」。不思議に思ったが、 一度自宅に戻って午後にまた学校に出るのが面倒と思い、自宅が近くの友人たちと、隣組で二つ上の谷ロキクさんが勤務する用務員室で過ごさせてもらうことにした。
ところがまた田中先生に見つかり、「早く帰りなさい。午後も学校に来なくていい」と再度強い口調で言われた。

若く優しい先生だったため違和感を覚えたが、言うとおりにした方が良いとも思い、帰ることになった。
しょうゆを買って帰ることになっていたため、帰宅途中の商店で購入。暑い日だったので、すぐそばの別の商店近くにある木陰で涼んでいると突然、赤みがかった黄色い光がドッと押し寄せた。それ以外何も覚えていないが、目が覚めたときには4~5m吹き飛ばされていた。
私たちは辺りを見渡すこともなく無我夢中で自宅がある川平町へと急いだ。町内に入ったところで外にいたおじさんから「今が一番危なか。防空壕に入って様子ば見て帰らんね」と言われヽいったんそこに身を寄せた。手提げに入れていたしょうゆの瓶が割れ、着ていた服が真っ黒になっていることに、そこで初めて気が付いた。

防空壕の中では、恐ろしさで体中がガタガタ震えた。たまに飛行機の音が聞こえ、身が縮まる思いだった。夕方に自宅に戻ると、家は傾き中はすすだらけで足の踏み場もなかったが、幸い家族は無事だった。

後に田中先生は亡くなったと谷口さんから聞いた。
学校が崩壊し、大きな柱の下敷きになったという。
あのときなぜヽあんなに強い口調で自宅に帰るよう言ったのか。虫の知らせというものなのか。
今となっては分からないが、命懸けで救ってくれた田中先生のことは一生、忘れることはできず、思い出すだけで涙があふれてくる。

2016年(平成28年)10月13日 長崎新聞


長崎市に生まれ育ち、これまで膨大な被爆体験を聞いたり、読んだりしてきたが、この記事は、とても印象深く忘れられないものの1つ。

かつて教師であった私にとっても、なにかしら教師の虫の知らせというのか、予感というのか、不思議なものを感じる体験談である。

また、西浦上小学校は私の母校であり、その母校にこのような教師がいたということも、胸の奥底に深く染み入るものがある。

原爆により、一度空中に持ち上げられた後、地面に叩きつけられ叩き潰された西浦上小学校。



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