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被爆直後の写真 「さまよえる兄弟」のこと

夏が近づくと街に現れる原爆関係のポスター。決まって使われる写真の中で、最もよく目にする1枚が、下の「弟を背負う兄」のもの。

モノクロでわかりにくいのですが、幼い弟の頭にはべっとりと血のりがこびりついています。誰もが「この男の子が重傷を負った時の出血だろう」と思うでしょう。

現に写真を撮った山端庸介自身もメモに 「長崎駅付近8月10日朝7時頃。両親を見失った少年兄弟、弟の方は頭部の負傷による出血で、それも暑さのせいでヒカラビている。もちろん顔を洗う余裕とてないのであろう」 と書いています。しかし実はこの血のりの多くは、男の子の母親のものでした・・・

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写真の兄は井上教通さん(当時18歳)。背負われているのは弟の正喜さん(当時7歳)。

井上さん一家は長崎市から16km離れた炭鉱の島、高島に住んでいたのですが、ちょうど8月9日は弟正喜さんの足の治療の為、一家で長崎医科大学附属病院へ出てきていました。
正喜さんの足にばい菌が入って化膿し、高島の小さな病院では治療できなかったためです。
11時2分、ちょうど正喜さんの治療中に原爆が炸裂し、正喜さんについていた母親はその瞬間、正喜さんを守ろうと覆い被さった時に割れた大量のガラスが母親の背中に突き刺さりました。
写真の血のりは自分の負傷の出血よりもその時したたり落ちた母親の大量の血がこびりついていたというわけです。

写真を撮られた朝、重傷を負い衰弱した母に「自分はもうだめだから、二人でいきなさい」と告げられた兄弟は市内の親戚宅をめざしますが、留守であったため再び母親のもとへ帰ろうとしていた時にカメラマンに遭遇しています。(兄弟の写真)

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その後、負傷した母と弟を連れた教通さんは、父の実家である池島へ渡りますが、母スマさんは着いたとたん安心したように息をひきとりました。
水を欲しがり続けた弟正喜さんも一週間後の8月16日「ああ、おいしい」と水を飲んだ後、亡くなっています。

教通さんは、怪我のため不自由な体ながら池島炭鉱の機械修理工として働き、昭和30年に結婚、二児に恵まれ、父親とともに5人で暮らしていましたが、54歳という若さで亡くなっています。(兄弟の父、勇三さんが集めていたという原爆関係の出版物)

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写真の中で教通さんが方からかけていたカバンの中身は、その年国民学校に入学したばかりの弟正喜さんの勉強道具だったそうです。
入院して勉強が遅れることを心配した兄教通さんがいつも持ち歩いていたものだったそうです・・・(被災した長崎駅)

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1945年8月10日の朝、希望に燃えて新1年生になったばかりの弟と、年の離れた弟をかわいがっていた兄、その二人の眼に映った世界とはどのようなものであったか、と想像するだけで背筋が凍るような思いがします・・・

瓦礫の中をさまよう兄弟、子どもの無事を見届けたとたん息をひきとった母親・・・、とても「無情」というようなひと言葉では表せませんね。

原爆が空襲とまったく異なる点は、「瞬時に逃げる事すらできない」ということです。
「原子爆弾」とはいうものの、原爆は「爆弾」という範疇とはかけ離れており、とてもではないが「爆弾」と呼ぶにふさわしくない絶滅兵器なのです。

(出展:長崎 よみがえる原爆写真 NHK取材班)


*説明のためにやむなく資料を引用させて頂いております。目的は戦争の悲惨さと平和の尊さを若者や子どもたちに伝える事です。ご了承のほどお願い致します。


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