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今もなお 立ち続ける証言者たち ~ 長崎の被爆樹木に会いにゆく ①

当初のタイトル構想は、「被爆樹木を訪ねて」でしたが、事後に「会いにゆく」変更しました。
樹木は動物とは勿論違いますが、今回対面して「生きている」というインパクトが非常に大きく感じられましたので。

長崎の被爆樹木と言えば「山王神社の大クス」が圧倒的に有名で、ガイドブックに掲載されたり、書物にも多く登場していますが、もちろん同じ熱線と爆風に耐えながら今も尚立ち続ける被爆木は他に何本もあります。しかし、残念ながら殆ど知られることがありません。事実、私ですら今まであまり惹かれるものがなかったのです。

今回、爆心から遠い長崎市北部より、爆心地を目指し、更に南側に抜けるルートで被爆木を探しました。今回追跡したのは平成8年に長崎市が発行した資料です。

まず1本目は長崎工業高校正門前にあるという被爆樹木を目指しましたが、これは完全に姿を消してしまっているようでした。
続いて爆心から約2.8kmという西北町・開念さん宅のカシの木を探しました。このカシの木は被爆前は20mほどもある大木でしたが、爆風で途中から折られ、熱線で幹を焼かれています。

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どうやらこのカシの木は、長崎工業高校グラウンドに近い高台にあるようです。

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何の標識もなく確定とは言えませんが、爆風の当たる場所、背後に見える石垣から判断すると、どうやらこの木のようです。
8年前の資料写真に見える横枝は切り落とされているようです。傷みにより風で折れる心配があったのでしょう。

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木はまだ若い葉を出し元気のようですが、幹を拡大してみると、なかなか痛々しい様子となっています。また、この場所の所有者も変わってしまっていたようでした。被爆後68年、資料作成時から17年。致し方のないことかもしれません。

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少し離れたところにある西北小学校からは、ちょうどプールの授業があっており、子どもたちの賑やかな歓声が響いていました。こういった何気ない夏の情景にこそ、長崎市民は68年前の惨禍と平和への尊さを思わずにはいられません。

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次に目指したのは、隣町、若竹町にある森田さん宅の柿の木です。同町に一方通行の場所は一ヶ所しかないので比較的探すのが楽でした。

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資料写真では枝を強く切ってありますが、この被爆柿は、ご覧のように樹勢もよく、多くの葉を茂らせていました。

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またこの木には被爆木であることを示すプレートが設置してありました。同じ被爆木であっても、こういった案内プレートが設置してあるものは、非常に稀であって、理解に苦しみました。おそらく所有者や場所の問題が関係しているのでしょうが・・・。

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この柿の木は爆心から約2,3km。樹勢がよいように見えますが、この木もやはり被爆後は実が落ちるのが早いなど、その影響があるのだそうです。
根元には原爆により焼けた傷跡が痛々しく残っています。この修復・治療も十分ではないように見受けられます。

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横の駐車場には柿の実のへたが落ちていました。今では柿の実を採る人もすっかりいなくなってしまいましたが、被爆柿は毎年、こうして実をつけているのですね。

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若竹町から爆心方向へ移動します。カトリック系の南山小学校付近、音無町・岸川さん宅にも被爆した柿の木があります。後方に見えている白い塔はカトリック西町教会の塔です。

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被爆時、岸川さん宅は全壊しています。庭には他にも木がありましたが、2013年現在は、この木だけが残っています。この被爆木も道路に面した比較的人の目につく場所に立っていることもあってか、「被爆木」であることを示すプレートが設置してありました。

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向かって右側が爆心方向です。爆心側には幾つかコブがあるものの、やはり枝が伸びきれなかったようです。

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それでも熱線に焼かれた傷跡には、わずかながら若い目が息吹いていました。

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音無町から城山方面を目指して移動していると、見るからに昭和時代からある市場に出会いました。
中の方の店舗はほとんど閉めてしまっているようでしたが、道に面した八百屋さんなどは、まだ元気にお店を続けられていました。

西北、若竹あたりは昭和期子どもも多く、小学生の頃、同町のソフトボールチームと対戦したことを思い出しました。こういった光景を見ると、戦後からの復興の道程を垣間みたような気がします。

声を張り、汗をかいて商売をする。そしてお客は歩いて買い物をする・・・このシンプルだけどあたたかな光景こそが街の元気な姿かもしれません。

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次に目指したのは、山王神社の大クスや城山小学校の二股グス、カラスザンショウ等と同じく、爆心から近い場所にある被爆木です。
若草町、諌山さん宅の5本の柿の木です。資料写真で見ると、何も伝わってきませんが、この5本の柿の木の中の1本は、今回もっとも見ていただきたい被爆木でした。

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場所は非常にわかりにくいところで、二人の方に聞いてやっと辿り着くことができました。「若草町」バス停から横道に入ったところにその5本の柿の木は立っています。

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資料写真にも載っているこの柿の木は、樹木医により手厚く手当てを為されていることがわかります。
この木は、熱線により炭化した部分を削って鉄骨を入れ、空洞部分はウレタンで埋められています。

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諌山さん宅には計5本の被爆柿があります。
諌山さんは一度、庭を広げる為にこの柿の木を切ろうとしたそうなのですが、父から「この木は切るな」と言われ、以来その言葉を遺言として守っているのだそうです。

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しかし、中でももっとも注目して欲しいのが、この真ん中に立つ柿の木です。

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数千度に及ぶ熱線に焼かれ炭化した樹皮がそのまま残っています。
中も空洞化し、中の方までぼろぼろとなってしまっているのが見てすぐにわかります。

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爆心からわずかに900m(山王神社の大クスは約800m)。
この状態にあって尚も葉を茂らせる姿は、痛々しいというよりも、「奇跡」に近いものを感じます。この姿こそ長崎を訪れる多くの方に見て欲しい姿です。

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しかし、残念ながらこの被爆木を案内するものは何ひとつありません。
山王神社の大クスが市の天然記念物に指定され、城山小の被爆木が多くの見学者に知られている現実を思うと、なんとも悲しい思いが込み上げます。

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せめてもの救いは、この柿の周りだけが美しい花壇に囲まれており、その近くには若木が育っていたということでしょうか・・・。
この若木もいつかは平和の使者としてどこかへ旅立ってゆくのでしょう。

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若草町にはカトリック教会や聖マリア学院というカトリック系の学校があります。被爆木に会った後、天を仰ぐ同校の聖像を見ると、今も尚見立たぬ場所で長い年月、被爆を証言し続ける木々の言葉が伝わってくるような気がします・・・。

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(元記事作成:2013年7月)

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