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長崎/人物・歴史・エトセトラ

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中興鉱業 福島炭鉱 ~ 松浦市福島町

大正9年村井鉱業が開さく、昭和に入り野上鉱業に譲渡、昭和10年からは沖の山炭鉱株式会社が継承。 昭和19年中島鉱業が買収、後に中興鉱業となります。 今回は、福島町歴史民俗資料館に展示してあった、「中興鉱業」時代の案内パンフレットで、紹介したいと思います。 その方が、より当時の炭鉱を知る手掛かりになると思いますので・・・・ 発行された年代がはっきりしませんが、資料に43年に完成した第2坑のやぐらの写真があることから、昭和45年前後ぐらいか・・・と推察されます。「ビルド鉱」・

ロバート・オッペンハイマーという人物に対する所感

映画は観ていない。 被爆地に生まれ育った者として、やはり躊躇と抵抗はあった。 Wikipediaを読んだくらい。 「運動神経は無いが、乗馬とヨットは得意であった」という一文に惹かれた。 乗馬が得意という事は、馬に信頼されたということ。 馬は、腹黒い人間や不誠実な人間に対しては、その本性を見抜き、絶対に信頼しない。 一度来日したことがあるという。 残念ながら広島と長崎には来ていないが、当時の状況ではまず無理だっただろう。 アメリカ駐日大使が原爆祈念式典に出席し始めたのもけ

或る、軍艦島で生まれ育った方のサイトより ~ 「4.爺ちゃんのこぼした話」

*** 哀しい話である。 今、多くの観光客が「軍艦島上陸ツアー」で島を訪れているが、こういう話はまったく耳にしないこと。いや、できないこと。 「日本人に気に入られようと」というくだりが、本当に哀しい。 戦争とは、人の中に眠っている「差別」を、これでもかというくらいに増長させるのである。

馬場 雄大 選手に捧ぐ 

長崎ヴェルカが昨年、B2プレーオフを突破して、B1に昇格した。 私は、佐賀市の佐賀アリーナで、佐賀とのプレーオフ決勝を観に行ったが、正直B1でのヴェルカには何の期待も無かった。 第一に、昇格を決めた後のマネージメントに腹が立った。 市内をパレードした後に選手が年間何十万円もする高額なチケット、いわゆる「年パス」を販売するチラシを手渡し配布していた。 その直後、半分近い選手が契約解除もしくはB2、B3リーグへの移籍となったことが発表された。 つまり水面下では首切りとなっていた選

S東美で軍艦島パネル展をみる

「S東美」・・・長崎市の人なら誰でも知っていますが、他の土地の人は「えすとうび??」と思われるかもしれません。 S東美の元は大正13年創業の佐々木商店。 昭和22年には繊維製品・装飾雑貨・美術品を扱う「東洋美装店」として株式化。その後株式会社エスマートと併せて「S東美・Sマート」となっています。 長崎市では「浜屋」「玉屋」「岡政(閉館)」とならんで馴染みのある百貨店です。 現在では地上4階までが売り場となっており、5階は事務所兼コミュニティ・スペースとなっています。 今回はブ

佐世保港の「巨人」は、スコットランドからやってきた ~SSK・250トンハンマーヘッド型クレーン

新聞の連載を持っていた時に「昔からある、佐世保ならではの風景は?」と考えて、浮かんできたのが、「坂道の途中に見える巨大なクレーン」・・・というものでした。 佐世保の親戚のうちに遊びに行って泊まった翌朝、細い坂道を下っていくと港に突き当たり、そこにはいつも艦船がいっぱいでクレーンの林がそびえていたような記憶があります・・・。 佐世保重工業(SSK)の250トン・ハンマーヘッド型クレーン。 この「巨人」は、大正2年(1913)より約1世紀の間、「佐世保のランドマーク」としてこ

美輪明宏さんの好きな佐古小周辺は、幕末の風情が残る場所・・・

「ここにある小学校が、廃校となれば、さぞ地域は寂れるだろうなぁ・・」と思うような場所で、次々と学校が消えていっている中・・・・ 長崎市もドーナツ化で、中心部の人口が急減しているのですが、「仁田(にた)小学校」と「佐古(さこ)小学校は、至近距離にありながらも、統廃合の波に呑まれていません。 こちらは明治35年開設の長崎市立仁田小学校です。(西小島2-6-15) そしてこちらが、明治39年開設の長崎市立佐古小学校です。(西小島1-7-1) 両校がどれぐらい近いか、と言うと、

大楠がつくった大楠小学校

「東彼杵郡、東彼杵町立 大楠小学校」 新聞の連載で2009年の年明け、1月は、この小学校の近くを描いたのですが、あとでこの地をよくよく調べてみると、長崎街道の中にあり、近くにあったこの小学校にも深い歴史があることがわかりました。 二ノ瀬集落のこの地には、昔、楠の大木があったらしいのです。 シーボルトは江戸へ向かう途中に、この大楠を調べ、幹の周囲16.9m、直径5.4mという記録を残しています。 また「大村郷村記」によると、領内随一の大木で、高さが梢までの高さが約23.6m

路面電車200形202号

数日前、浦上車庫前付近で出会った路面電車202号。 202号車は、昭和25年に日本車輌(名古屋市)で製造された5両のうちの1両です。 福岡市の西鉄線500形の側面をそのままコピーし、車体幅を120mm細くして造られました。元々の姿は↓下の画像のようなものでしたが、ワンマン化の際に正面窓を固定化し、冷房化の際に張り上げ屋根への改造、方向幕の大型化、前照灯位置の窓下への移設、側面方向幕の新設、客室灯の蛍光灯か、及び自動ドア化など・・・大幅な改造が施工されました。 ドアは現在も尚

戸町~ねずみ島行きの桟橋

それほど強く意識していたわけではないのですが、長年?調べたいと思っていたことがありました。それは・・・・。 小学生の頃、ねずみ島(皇后島)遊泳道場へ通う際、大波止とねずみ島を往復していた船は途中、戸町の桟橋に立ち寄り、市内南部の子ども達を乗降させていました。 その頃、船上から眺めていた、あの戸町桟橋はいったいどこだったのだろう・・・・?ということです。 探してみることにしました。 戸町に着いて、付近を歩いている人にたずねると、二人目のおじいさんが、渡辺造船所の所だと教えてく

活気に満ちた昭和の汽車旅の記憶をそのまま保存してある、肥前七浦駅(佐賀県鹿島市)

JR長崎本線の「肥前七浦(ななうら)」駅は、佐賀県鹿島市大字音成にある無人駅ですが、長崎本線の昭和時代のイメージをほぼそのまま残している貴重な駅舎だと思いますので、紹介したいと思います。 肥前七浦駅は、昭和9年4月16日、JRの前身である鉄道省によって、有明線(現・長崎本線)の駅として開設されました。駅舎の外観は当時のままの姿をとどめており、標題のごとく、「活気に満ちた昭和の汽車旅の記憶」を今の時代に、彷彿とさせてくれます。 長崎本線は、長崎市・諫早・島原方面と、鹿島・佐

私が紹介したい長崎 ④ ド・ロ神父が眠るキリシタン墓地が語りかけてくること

パリ外国宣教会の神父として、外海(そとめ)地方を拠点に活動し、生涯故郷フランスに帰ることなく、ここ出津(しつ)の地に眠っています。 旅行者はほとんど出津教会やド・ロ神父記念館を見学して、墓地には来ないと思いますので、ド・ロ神父が眠るカトリック墓地を紹介したいと思います。 「カトリック墓地が語りかけてくる言葉」をぜひ聞いてみて欲しいと思います。 墓地は、外海中学校(旧出津小学校跡地)の向かいの出津川を挟んだ山あいにあります。 墓地の前にはツーリスト用の駐車場があります。

みそ五郎伝説の高岩山に抱かれた小さな分校 ~ 南島原市立長野小学校塔ノ坂分校最後の一日

島原半島には幾つかの巨人伝説があるそうで、それは何と言っても中央に雲仙という威容を誇る火山があるためかとも思うのですが、その中でも西有家(にしありえ)町の「みそ五郎」伝説は有名です。 伝説を非常に要約すると、雲仙から近い場所にある岩山、高岩山には「雲仙に腰かけて、高岩山に足を乗せる」ほどの大男がいて、普段は人々から好物の味噌を貰って暮らしているのだけど、ひとたび水害などの天災が起きると、人々の為に活躍するというものです。 その伝説の高岩山の麓に抱かれた里に「塔ノ坂(とうのさ

「長崎最大の偉人 ド・ロ神父」は、典型的な提唱者型(INFJ) ①居留地・横浜では、追放された問題外国人だった

ずっと長崎の歴史を調べてきたが、何と言っても「長崎最大の偉人」と言えば、フランス人のマルコ・マリー・ド・ロ神父と岩永マキであろう。 時代背景もあるが、その偉業はスケールと質が違う。 ド・ロ神父は、その考え方や行動を知れば知るほど、今の「16Personalities」で言えば、提唱者型(INFJ)であることに間違いない。 その足跡を数回に分けて紹介してみたいと思う。 まず来日して滞在した横浜でのこと。 神戸でも長崎でもそうであるが、外国人居留地というのは、港を望む山手にあ