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少しラクに生きるためのヒント

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#人生

生きているか、いないかは、大きな問題では無い。より「エッセンス」をどれだけ今日一日表現できているか?の方が大事である

人生とは、とにかく金儲けで、いかに他より贅沢することだと決めつけ、起きてから寝るまで、その事だけしか頭にない人がいる。 また、朝起きると、「今日また、自分は病気になるのではないか?」「病気にかかっていることがわかるのではないか?」と心配ばかりをして一日を潰す人もいる。 どちらも、延命を願うだろう。 しかし、人生をどれだけ延命するか(できるか?)、金儲けして贅沢する日々を続けるか、よりも「エッセンス」をどれだけ今日一日表現できるか?の方が、はるかに大事である。 生きている

教育を考える② 学校教育には、大事なプロセスである失敗が無いからだめなのである

今の学校では、「テストや試験で間違う=低評価」という短絡的な価値観と体系がまだまだ根強く残っていると見られる。 しかし、それはまったくもっておかしな話で、「失敗することこそが、学習」なのだ。 「~したい」という興味意欲を基にして、達成のためのプランを練る。そして試す。 問題の質にもよるが、簡単には解決しない。つまり失敗する。 よって違うプランを練り、再び試す。 その繰り返しこそが「学習」だと言っても言い過ぎではない。 それがだんだん楽しくなってくる。 何故なら達成した時に、

「いつの日か・・」と漠然と思うが

「いつの日か・・・」とよく思う。 やりたいこと。やらなくてはならないと思ってること。 自分の夢、その第一歩。 しかし、「いつの日か・・・」なんて考えていても、そんな日は、永遠に来ないのである。 もし、来るとしてもその時は、今現在よりも、かなり気力・体力は衰えてしまっているのだ。 その分、経験で得た英知、試行錯誤をフル稼働させないと、とても昔には及ばない。 一日でも「若い」ということは、それだけ「可能性」も「気力」も「体力」も明日よりは備えているということなのである。 「

「男はつらいよ」の宣伝担当をされていた方が語った、渥美 清さんの言葉は、アンガーマネージメントとして、人生の生き方として有効である

BSテレ東で毎週土曜日に放送されている「男はつらいよ」シリーズ。 映画が始まる前に当時のエピソードを紹介するコーナーがあります。 この時は、「男はつらいよ」の宣伝担当をされていた方でした。 当時の渥美さんについて、以下のようなお話をされていました。 「普段の渥美さんは、寅さんとはまったく違う。寡黙でよく本を読んだり芝居を観たり・・・」 そして、心に残る言葉として、次のような言葉を紹介されていました。(正確ではありません) この言葉、誰にでも当てはまりますね。 人は誰

なぜ衣食住恵まれていても、「幸せ」が感じられないのか?

「人に与える」という充足感を感じることが無いからである。 物価高や戦争といっても、今日の食料も無く、命が脅かされているとは言えない。 一日の終わりには温かい浴槽に浸かり、温かい布団で眠ることができる。 しかし、もうSNSを見ているほぼ全員が、世界中には、それすらも与えられていない人が、星の数ほどいることを知っている。 でも、 それらの人に「自分の安寧」を少しだけでも分けてあげられる、術もないし、探る方法も知らない。 自分の命は、他の命を助け、輝かすことでしか輝くことは

基本、人生とは、生まれ落ちた時から死ぬまで、問題解決(ソリューション)への挑戦の連続なのだ

「生まれた時は、違うやろ!生んでくれた母やその他の人が、世話して育ててくれたから、今こうして生きていることができるんや!」と言うかもしれない。 いや、そうじゃない。 貴方は、生まれ落ちたその瞬間から、「このままやと、死んでまう」という現実的な大問題に直面して、最大のソリューションを実践しているのだ。 まず大声で、「なんとか世話してくれ~~~!」と大声で泣き叫んでいるだろうし、これ以上は無いというような「愛くるしいしぐさ」で、自分へのケアをアピールしているだろう。 人生と

「今日は、どんな小さなことでもいいから、いくつ人の為になれるか」考えられる毎日

表題のような毎日が送れるといい。 それができれば、自分で自分を尊敬できる「好きな自分」でいられる。 人の為になれること。 笑顔で挨拶をするだけでも、十分人の為になれること。 たとえ重い病に伏していたとしても、SNSで他人にポジティブな言葉を贈ること、メモ帳に前向きなことばを書き残すことはできる。 この世を去る寸前までできることである。

「夢は大抵叶わない」なんて、気安く言うが、365°の内、何°試したのか?!

幼稚園や保育園の卒園式で、 「お花屋さんになりたい」 と述べていた子どもは、その後ほどなくして、 「そんなのなれるわけない」と悟ってしまう。 青年期になっても状況は劇的には変わらない。 進路学習、進路指導において、夢を語る生徒なんていない。 3者面談でやりとりされるのは、成績と進学先と就職先の可能性だけにすぎない。 世の中には、「刀折れ矢つきる」だとか「万策つきた」なんていう、すぐにあきらめることを正当化?する言葉も多いように思う。 「夢なんて大抵叶わない」と堂々と言

A(Answer)を求める暗記よりも B(Better) 或いはSB(Should better)を求める本当の学習を

「数学」とは何か、と検索してみる。 駒沢大学のHPに表記してある表現を用いると、 とある。 この定義によると、「新しい予想」「推論」「真理」という文言が、この短い文章の中に並ぶ。 なんだか少しワクワクする文言である。 しかし、1+1=2から始まる算数、数学に、このような要素があるだろうか? 無い。 ひたすら答え、解を求める。つまり「暗記」するだけ。 「数学が得意!」と言っていても、結局A(Answer)を求めるだけであれば、それは暗記の範疇を出ないのである。

日本人の最大の弱点は、事前にマイナス要素ばかりを並べ立てて、結局いつまでも一歩が踏み出せないこと

「日本人の最大の弱点は、事前にマイナス要素ばかりを並べ立てて、結局いつまでも一歩が踏み出せないこと」という表現は、まだ控えめな表現である。 有体に言うと、「何か問題や困難に直面した時に、すぐ憂いたり、弱音を吐くばかりで、どんな方法(考え方)なら解決・打開していけるかという思考に切り替えて、すぐにトライする【人間力】が弱い」ということなのだ。 たとえどんなに、困難・絶望的な状況に陥ったとしても、かならず解決できる方法があるはずだ。 百なら百考えて、すぐにそのどれからでも試

商売をやるならば、「品質(種類)」ー「価格」ー「付加価値」ー「宣伝」の次に来るものが、もっとも重要

何か物を売る場合であれ、サービスを売る場合であれ、オーソドックスには、標題のような思考になると思います。 ここまでは、ほぼ誰もが考えると思うのですが、実際はそう簡単なものではありません。 「商材が時代に合わなかった」とか「商売に向いてない気質だった」とか、「ターゲットとなる消費者の心理をつかめていなかった」など色々と失敗の原因を考えますが、本当にそうでしょうか? 私は、その次にくるべき「もの」が無いので、伸び悩んだというのが実情ではないかと思います。 その次に来るべきも

「赦す」「譲る」「認める」「謝る」 を常備すること ③ 自然に身についている人

「赦す」「譲る」「認める」「謝る」 を常備することが、自然に身についている人がいる。 その人は、心に余裕があったり、精神的に成熟しているから、できるようになったわけではない。 「習慣」になっているから、できるのである。 「水は、低い方へ流れる」 という言葉があるが、すべては、この言葉が表している。 「赦す」「譲る」「認める」「謝る」 を常備していると、「そんなにペコペコする必要などない!」と乱暴なことを口走る人がいる。 しかし、このような高圧的な人の元には、最終的には

「赦す」「譲る」「認める」「謝る」 を常備すること  ① 世界情勢や人類の歴史レベルに照らして考えてみる

考えてみれば、何と無益なことであろうか。 私たちが生まれる、ずっと以前に起きた戦争の歴史の遺恨を、いつの間にか背負わされ(丸投げされ)、そして解決することもなく、その遺恨を死んでからも、次の世代に引き継ぐなんて。 そんなことは、自分たちのの世代で、さっさと終わりにしよう。 お互いが、根拠のわからないプライドにこだわっているなんて、実にくだらない。 お互いに「赦す」「譲る」「認める」「謝る」の姿勢で相手に接すればよいだけのことだ。 それは国家や民族レベルでも同じこと。

「赦し」は、所作として身に付けると、自己嫌悪を減らし、自分を好きになる自己肯定につながる

娘は高校卒業後すぐに車の運転免許を取った。 免許取得後、運転に慣れる為の練習として、娘の運転する車に同乗した。 「車社会」にデビューした娘は、まったく真摯な態度で、誠実に入っていったわけである。 横に乗る私が設定したルートを守り、アドバイスにも全て真面目に受け止めて運転を行った。 車には当然、初心者マークを付けている。 制限速度は当然気にしており、遅すぎるわけではない。 であるにも関わらずである。 一車線の山道とかで、後ろから「煽らんばかりに」接近してくる車が少なくない