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「赦し」は、所作として身に付けると、自己嫌悪を減らし、自分を好きになる自己肯定につながる

娘は高校卒業後すぐに車の運転免許を取った。
免許取得後、運転に慣れる為の練習として、娘の運転する車に同乗した。

「車社会」にデビューした娘は、まったく真摯な態度で、誠実に入っていったわけである。
横に乗る私が設定したルートを守り、アドバイスにも全て真面目に受け止めて運転を行った。

車には当然、初心者マークを付けている。
制限速度は当然気にしており、遅すぎるわけではない。

であるにも関わらずである。
一車線の山道とかで、後ろから「煽らんばかりに」接近してくる車が少なくない。

私は娘に左にバスレーンなどの幅広い場所があると、そこに一時停車して、後ろの車をやり過ごすようにアドバイスした。
娘は素直に従い、けっこうな割合で後続車をやり過ごした。

何日か連続して乗っている内に、次第に運転に慣れてきてスムーズな走行ができるようになってきた。

それでも、なお山道では後ろから加速してぴったり付けてくる車がいる。
娘はそういう時に「苛立ち」を口にするようになった。当然のことである。
自分は、誠実な態度で運転をしており、何の非もないのに、いわば「一方的な嫌がらせ」をされるわけなので。

そこで、私は娘にこうアドバイスした。
「こういう時は、プライドとかじゃなくて、さっさと後ろの車を先に行かせる、譲ること。車を運転することは、そういうものなのだという習慣を最初から身につけておくといい。
そうしないと、イライラの時間が長く続いて、快適な運転の時間を台無しにしてしまうから」と。

これは、一方で私が自分自身に向かって言っている言葉でもあった。
人は考えてみれば、何でもない、つまらないことに意地をはって、長い間「自分自身の快適な人生の時間」を失くしてしまっている。

だんだん歳を取ってくると、人生の時間は驚くほど短く、つまらない意地やプライドから引きずっている「怒り」や「苛立ち」が、自分自身の貴重な人生の残り時間を台無しにしてしまっているかがわかってくる。

つまらぬプライドや意地は捨てて、さっさと「譲ってあげる=赦してあげる」といいのだ。
そういうことを、「生きる上での所作」として身に付けておけばいい。
それは何も「恰好悪いこと」でも「弱腰の臆病者の態度」でも「負け犬の理論」でもない。
むしろ自分自身を「自己嫌悪や厭世的な心」から遠ざけて、「自分自身を好きになり、誇りに思う」心情を日々育ててくれるのだ。
繰り返しになるが、「日々をびくびくと臆病に、弱気になって」生きる必要は無い。むしろ堂々と胸を張って譲って(赦して)あげることだ。

ここまで書いてきて、思い出したことが二つある。

ひとつは、まだ私が小学生の頃、両親と京都を観光したことがあった。
どこかの寺か何かを訪れた時のことである。
わたしと親がその施設のチケット売り場に近づいた時のこと。
先に一人の外国人の女性がやはり入場しようとしていた。歳の頃は40代くらいであろうか。
女性はチケットを買おうとしたのかハンドバッグを開けて中を確認していたのだが、私たち親子に気が付くと、チケットブースから身を一歩退いて、私たちに向かって笑顔で、「お先にどうぞ」というような仕草をした。
きっと「私は外国人でよくわからないから、チケットを買うのに時間がかかってしまうだろうから、どうぞお先に!」とでもいうことだったのだろう。
しかし、私は50年近く経った今でも、その女性の笑顔を鮮明に思いだすことができる。

もう一つは、つい1~2か月前の事。
ある商業施設の100円均一の売り場で商品を探していた時のこと。
商品の間の通路は人が行きかうには少し狭い場所だった。
ある商品棚を曲がった時に、一組の年老いた夫婦と出くわした。
小柄で白髪のおじいさんと奥さんらしきおばあさん。
そのとたん、前を歩いていたおじいさんは、私に向かって「すいません」と言って、身をひいてくれた。そうして、何事もなかったようにまた夫婦で商品を探す会話をしながら行ってしまった。
私は、やはりその方の所作が忘れられずにいる。

これが「譲ること、赦すことのリスペクトすべきパワー」なのだ。


車の運転のことで説明をしたが、これを人生上の問題や社会問題にまで広げてみる。

実社会の中では、職場や学校、地域社会など、簡単には物理的に離れられない人間関係も数多く存在する。
自分の上司であるとか、取引先、担任の教師、クラスメート、また近隣の住人など。

いくらこちらが「自分が考える最良の誠意」をもって臨んだとしても、一方的に理不尽な態度や仕打ちをぶつけられることが少なくはない。
これは基本的に自分自身の問題ではなくて、相手側の何らかの問題であるから、基本的な「譲歩:譲ってあげること。赦してあげること」以上のストレスを受け続ける必要は無い。
無理な「和解」はせず、お互いが「win-win」とできる「合意線」を引くべきである。そういう意味で自分自身の「人間関係の上の悪いマイナスな部分から受ける負の感情」は断捨離すべきなのだ。
その後は、「~扱い」といった見方を相手にせず、相手を「生命ある存在」としてリスペクトを持って対処すれば、あなたの態度としては満点なのである。
もちろん物理的に離れる選択ができるのであれば、それもいい。

「win-win」とできる「合意線」を引くには、まず
①徹底的に同情的な態度で相手の話をよく聞くことである。
②次に、聞いたと同じくらいの時間をかけて、こちらの考えを相手に述べるべきである。
③お互いのことを十分共感的な態度で話を聞けたと感じたのならば、合意できる「win-win」となるような「合意線」を見つける。
うまく線が引けない時は、①と②を時間をおいて繰り返すスケジュールを決める。


戦争という社会問題にまで広げてみる。
スケールはかなり違ってくるが、やはりこの「win-win」とできる「合意線」を見つけることにおいては同じであろう。
国や民族などを代表する政府の人物たちは、こういうプロセスに従ってしか戦争や紛争を回避する道はないのではなかろうか。



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