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#60 Be H.O.R.S.E. 完結!

 こんにちは、人馬交流分析士のりょーじ(@Horse Value)です。人馬交流分析って何?りょーじって誰?それをやって何になるの?という疑問への答えは#1をお読みください!

 さて、#41~#60では、馬との交流から学んだことを、交流分析の視点で見てきました。この馬との交流のエピソードは#8~#27でお話ししたものだったので体験としては真新しさはなかったかもしれませんが、この体験からの学びを体系的に理解してもらうためには良かったと思います。

 ここまでお話してきて、僕が学んできたことと交流分析は非常に密接に関わっていることを分かってもらえたと思います。そこで今回そのまとめとして「H.O.R.S.E.理論と交流分析」というテーマでお話させていただきたいと思います。

 H.O.R.S.E.理論とは、僕が馬との交流から学んだことを理論立てたもののことでした。H.O.R.S.E.理論って何?という方は#28と#29を読んでみてください!

 #40でお話しさせてもらった内容と重複する部分もあると思いますが、改めて馬との交流の例に少し触れつつ、H.O.R.S.E.理論の頭文字1つ1つと交流分析の関係を見ていきたいと思います!

 ということで今日のラインナップはこちら!
・H(Here and Now:今、ここ)と交流分析
・O(Oneness and Overall:唯一無二で全体的な)と交流分析
・R(Reflective:相互に反射的な)と交流分析
・S(Sympathetic:共感的な)と交流分析
・E(Essencially Universal:本質的に普遍な)と交流分析
・H.O.R.S.E.理論と交流分析

H(Here and Now:今、ここ)と交流分析

 #41~#44では、将来に不安を感じる、トラウマについて、自分の意見を言えない、感情の悪循環にはまってしまう、というお話をしてきました。これはH.O.R.S.E.理論の中ではH(Here and Now:今ここ)でいられないことによって起きることです。

 とはいえ、「今ここを生きる」ということを実践するのはとても難しいことです。人間はいつも思考に縛られて、過去や未来について考えることが癖づいてしまっているからです。そこで、#41~#44では交流分析を使って「どうしたら今、ここで生きることができるようになるのか」ということをお話してきたつもりです。

 トラウマを持っている時、将来に不安を持っている時、思ったことを口に出せないとき、感情の悪循環にはまってしまっている時。それは「今、ここ」を生きることができていない状態です。そんな人がそんな自分を変化させることがどうやったらできる、とお話してきたでしょうか。

 #41、#42のまとめで、#43と#44の中で触れたように「愛に生きる」という大前提がそれを可能にします。過去のトラウマや未来への不安に取りつかれずに、今、ここにあるものを感じるためには「目の前の人との間に起こっていること」を丁寧に愛を持って見ていく、ということが必要である、ということです。

 僕は、交流分析とは「今、ここ」を生きるツールであると考えています。なぜなら「今、ここで自分やその人がどのような状態か」を知ることができるからです。

 つまり、僕が馬との交流で学んだ「今ここに生まれているものを大切にして生きる」ということを可能にするのが、愛を持って丁寧に目の前の人に接することであり、それには交流分析を使うことができる、ということなんです。

 これが人間の本来的在り方の1つの要素であるH(Here and Now:今ここ)と交流分析の関係です。

【H(今、ここ)と交流分析】
交流分析を知ることは「今、ここに生きる」大切さを知ることにもなりますし、その「今、ここに生きる」上で不可欠な「自分や他者に愛を持って接する」を可能にするのが、交流分析を使って人と人との間で起こっていることを丁寧に分析することなのです。

O(Oneness and Overall:唯一無二で全体的な)と交流分析

 #46~#49では、有能さ無能さについて、誰かに必要とされることについて、自分らしさについて、本当の自分について、お話ししました。どれも「自分という存在」をどう考えるか、というH.O.R.S.E.理論のO(Oneness and Overall:唯一無二で全体的な)という部分のお話です。

 誰もが唯一無二の存在で、そしてあらゆる側面を一人で持つ全体的な存在である、ということを信じることができると、他者との比較であったり、社会の中での自分の必要性というものに頭を悩ませたりすることがなくなります。

 このO(Oneness and Overall:唯一無二で全体的な)というのは「誰もがそうである」ということが前提です。交流分析においても、誰もが共通の5つの自我状態を持っているが、どの自我状態であるかの傾向やその自我状態の表れ方は人によって個性的である、としています。

 問題なのは人間はそのことを「忘れてしまう」ということなのです。それは自分自身についても、他者についてもそうです。それが#46~#49で度々言ってきた「レッテルを貼る」ということなのです。

 #46~#49では、人が普段いかに「レッテルを貼って生きているのか」をお話しした後に、どうやったらそれをせずにいられるか、というお話を交流分析を使いながらしてきました。

 交流分析において、相手にレッテルを貼る、ということはその人に対していつも同じ自我状態で接する、ということです。その同じ自我状態からいつも同じような交流が生まれ、相手も同じような反応をする。それによってレッテルがさらに強まる、という仕組みをお話してきました。

 つまり、交流分析という視点で見て「レッテルを貼る」ということ、そしてそれによって自分の全体性が失われて自分の在り方(自我状態)が固定化されてしまうのだ、ということを説明してきたわけです。

 そして、レッテル貼りを止めるためには、まずは自分の全体性を思い出し、かつ相手にもあらゆる側面があるのだ、ということを思い出し、まずは自分から変化を起こしていくことが大切なのだ、というお話をしました。

 誰もが特別で誰もがあらゆる側面を持っているという前提に立つことで、交流によって自分が変われば相手も変わるのだ、という考えを持っているのが交流分析であり、僕のいう所のO(Oneness and Overall:唯一無二で全体的)であることを信じる、ということなのです。

【O(唯一無二で全体的な)と交流分析】
誰もが特別で誰もがあらゆる側面を持っているという当たり前のことを僕達は時に信じられなくなります。交流分析を使って、自分と相手の間に起こる交流を見ていくことでそれを信じ、自分の中に変化を起こしていくことができるようになります。

R(Reflective:相互に反射的な)と交流分析

  #51と#52では、人と感情的な交流を行う必要がない、自分は誰からも独立した存在であるので分かり合えるわけない、といった考えについてお話してきました。そして、哲学者ヘーゲルの言葉「人間は関係性の網の中で生きている」を用いてそれは大いなる間違いである、ということをお伝えしてきました。

 馬との交流から最初に学ぶことがそのことだと思っています。#18と#19でお話ししたように、私たちは自身の在り方を変化させることによって馬の在り方を変えることができる、と実感してもらうことができるからです。

 「他者を鏡として自分を見なさい」つまり「他者との交流の中で起こっていることを自身の問題として捉えなさい」というのは良く言われることですが、馬との交流ではそれが明らかに起こっていると感じる、つまり馬との交流で起こる問題は「自分が起こしている」と感じることができるのです。

 交流分析、という考えを使って考えていくとそれをより理論的に説明することができます。交流の中で私たちはお互いの自我状態にどのように影響を与えあっていて、それが変化していくのかを見ていくのが交流分析の基本的なやり方だからです。

 相手の在り方は自分を映していて、相手の在り方によって自分も影響を与えられている、という交流内での人間の「相互反射的な」性質を実感し、知ることで「自分が変われば相手が変わる」という考えを持ち自分の在り方を変化させていくことにつながっていきます。

【R(相互に反射的な)と交流分析】
 自分と他者がいつも繋がっていてお互いの在り方に影響を与えあっている、ということは他者との交流を意識的に行うと必ず実感することができます。そんな実感を交流分析を使って理論的に整理することによってより整理された学びとなるでしょう。そんな他者との感情的な繋がりを信じられるようになれば、自分を変えることで相手が変わり世界が変わっていくと信じることができるようになります。

S(Sympathetic:共感的な)と交流分析

 #54~#57では、自分のことを理解してもらえない、どうしても理解できない人がいる、という「分かり合えない」というテーマについてお話してきました。

 #21~#24では馬との交流を例として、どのようにしたら他者に理解され、理解することができるのか、「共感」というのはどのように生まれるのか、というお話をしてきました。そして#54~#57では「交流分析をどう使うのか」というお話をしながら、より理論的に「共感が生まれる仕組み」についてお話してきました。

 その中でお話してきたように、私たちの共感というのは自然と生まれるものです。本来は感情というのは無意識的にでも自然と周りの人に伝わっています。しかし、その本来生まれるはずのものを阻害するものがあります。それが「自分本位」です。

 自分本位、とは自分の幸せだけを追いかける、それで自分が幸せになれる、と信じることです。本当は感情というものはみんな繋がっているから一人だけがハッピーという状態はないはずなのですが「喜びは奪い合い」「みんなが幸せになることはできない」ということが当たり前に考えられてしまっています。

 そんな考えで本来の「共感的な」在り方、つまり他者をありのままに観る、感じる、ということをやめて他者といることが「自分の幸せにどうやって役立つか」ということを考えてしまっているのです。

 そんな自分本位の、自分だけが、ということを捨てることができたら、共感は勝手に生まれていきます。その中で、自分が主体的に変化しながら相手に自然と寄り添ってまず共感し、共感されるようになっていくことが理想です。

 さて、#54~#57では、交流分析を使って馬との交流事例を理論的に見ていく、ということだけではなく、具体的に交流分析を「どのように使って」共感的な在り方を取り戻していくのか、というお話をしてきました。

 交流分析とは、人と人との交流がどのように起こり、その交流によってお互いがどのように変化するのかを分析するものでした。それを「自分と他者の交流について行っていく」ことは、交流について、自分自身と相手について深く知ることに繋がるでしょう。

 とはいえ、気をつけなければいけないことは、その分析をしっかりとした「ありのままを見つめる」意識で行わなければいけない、ということです。その分析が自分だけの感情を処理するため、自分だけを守ったり正当化したりするために使われてはいけない、ということです。純粋に何が起こっているのか真摯に見ていく、ということが大切なことです。

 どれだけそれが不都合で不本意だったとしても、そこに起こっていること、自分の感情、相手の感情を丁寧に観察し、その上で僕たちは本来的に「共感的で分かり合うことのできる」存在である、という前提で見ていくことが交流分析を行う上の大原則なのです。

【S(共感的な)と交流分析】
人間は本来的に共感的で分かり合うことのできる生き物です。交流分析を使って人間関係を見ていくことで、丁寧に相手を観察することができ、それを信じることができるようになるでしょう。とはいえ「分かり合えるわけがない」という固定観念を持って交流を分析しても意味がありません。交流分析の前提に「どんな人も分かり合える」ということがあるのを忘れないでください。

E(Essencially Universal:本質的に普遍な)と交流分析

 #59と#60では「人間は誰しも共通したシステムを持っている」というお話をしてきました。#26と#27でお話ししたように僕は馬との交流を通じて「馬と人との間にもたくさんの共通点があり、システムが同じ」であることを知りました。

 お互いの違う所ばかりが目についてしまう僕たちですが、全ての人が同じ感情、例えば喜び、怒り、悲しみ…を持っていて、その感情は誰しも同じシステムで動いています。もちろん、同じ感情を持ってもどう行動するのか、どう表現するのかは人それぞれですが、その感情の裏側で動いているシステムは同じなのです。

 それが僕の言う人間は本来「本質的に普遍である」ということです。この「本質的」も「普遍」も哲学の現象学の用語なのですが(これについてはどこかでお話ししていく予定です)簡単に言うと、人間には「共通の仕組み」があるということを言っています。

 交流分析においては、この人間の持つ共通性はある意味前提とされています。全ての人間は5つの自我状態を持っている…というのは全ての人が同じ共通システムを持っている、ということの上に成り立っています。

 #59と#60ではそんな交流分析を使って馬と人との交流の例を考えて、やっぱり同じシステムが働いていると説明できるよね、ということをお話してきました。そもそも交流分析は、私たちの交流を観察してその中から共通点を発見して唱えなられた理論なのですが、馬と人との間でもこんなにそれが当てはまるんだね、ということを見てきたわけです。

 この共通性を信じることができるかどうか、というのが実は前回お話ししたR(相互に反射的な)とかS(共感的な)というところに繋がっています。

 もし世界中の人間の中に1つも共通点を見つけられないとしたら…僕たちは共感したり繋がったりできるはずはありません。僕たちが他者との交流の中で他者を鏡として自分自身のことを見ることができるのは、自分自身との共通点があるからなのです。

 そもそも考えてみてください。僕たち人間はものすごい共通点を持っているんです。嬉しい時に笑う、というのが世界共通なことってすごくないですか。そんな共通点がなければそもそも交流することすら難しいはずです。

 馬と交流することは、改めて人間同士の共通点を見つける良いきっかけになります。そして馬を知っていくと馬と人もこんなに同じなんだ、と思うことができるようになります。そんな体験をすることで、交流分析を使って「この人も同じだ、あの人も同じだ」と共通点を見つけていくことがより楽しくなってくると思います。

 そんな共通点を見つけ全世界に広げることで、全世界の人が分かり合って、幸せになれる、そんな世界に一歩近づくことができる、と僕は信じています。

【E(本質的に普遍な)と交流分析】
交流分析は人同士の交流を観察することで誰もが持つ共通システムを発見してきました。僕は馬との交流を通じて、馬と人との共通点を実感し、交流分析の考えと一致することに気づきました。他者(人でも馬でも)との交流の中で共通点を発見することを意識し、そんな体験を交流分析を使って見ていくことで「人間とは」ということの理解が深まるでしょう。

H.O.R.S.E.理論と交流分析

 さて、H.O.R.S.E.理論 の頭文字一つ一つと交流分析の関係について見てきました。ここまでで僕が馬との交流を通じて感じたことをまとめたものであるH.O.R.S.E.理論について交流分析という観点で見ながら理解を深めてもらったんじゃないかな、と思います。

 ここで改めてH.O.R.S.E.理論の全体図を見てみましょう。

 もし、ご自身がこんな在り方であることができたらそしてそんな在り方で全ての人がいる、と信じられることができたら…これまで#8~#27や#41~#60でお話ししたような悩みは全て解決します。そんな在り方がH.O.R.S.E.という在り方なのです。

 そして馬はこのH.O.R.S.E.という在り方を体現しているな、と思います。僕たちも本来はそうであるはずです。ただただ固定観念とか間違った思考とか、そういうものが邪魔をしているだけです。

 とはいえ、こんな在り方でいようよ!ということは「言うは易し行うは難し」であることも確かです。例えば、「悟り」はそんな在り方があるのは分かっているけど、どうやったらそこに至るのか、というのはなかなか分からない、というものだと思います。

 同じようにH.O.R.S.E.な在り方である、ということは素晴らしいことだとしても、そのような在り方になるということができない、というのでは意味がありません。そんな在り方になるためにはどうしたらよいのか、ということを同時にお伝えしたいな、という風にいつも思っています。

 #30から何度もお話してきたように、交流分析はその「どうやってH.O.R.S.E.に至るか」ということについて大きなヒントを与えてくれています。交流分析とは、「人と人との交流を丁寧に見ていく」ということを行っていて、それは「自分を知り、他者を知り、その間に起こっていることを知る」ということを目指していると言えます。

 H.O.R.S.E.であるためにまず何をすべきですか?という風に聞かれたとしたら、僕はまず「外で起こっている問題を自分の内面が起こしていることだと捉えてみましょう」と言います。それはつまり、他者との交流の中で起こっている問題を見つめその時の内面的に起きていることを見ていきましょう、ということです。

 何か問題が起きている時、自分はどのような在り方で、相手はどのような在り方で、その間で何が起きているのか。そんなことを丁寧に見ていくと何が起こるでしょうか。その問題に対して自分が変わっていけば相手も変わっていって問題がなくなる、と感じることができるようになるのです。

 それがまさに交流分析の行おうとしていることであり、僕が馬との交流を通じて皆さんに提供したい体験なのです。そんな体験を繰り返して、自分や他者やその間に起こっていることをありのまま感じられるようになる…それがH.O.R.S.E.な在り方に繋がっていきます。

【今日のまとめ】H.O.R.S.E.という在り方でいることができれば今まで問題だと思っていたことが問題ではなくなります。ではそんな在り方でいるためにどうしたら良いのか、ということを説明してくれるのが交流分析です。交流分析を使って「自分を知り、他者を知り、その間に起こることを知る」ということを行っていきましょう。

 今回で、H.O.R.S.E.理論についてご説明する連載的な投稿は一旦簡潔です。少しでもご興味を持った方は、最大の「H.O.R.S.E.」の体現者である馬に逢いに来てください!


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