若手社員の質問
先週末、僕が参加している経営ゼミに、会社の若手社員を連れて行った。
その日は通常講義とは別で、ゲストスピーカーによるレクチャー&懇親会という形式だった。「知り合いを1名呼んでも良いよ」と言われたので、会社のSlackで募ったところ入社2年目の若手が参加表明し、同行するという運びになった。
この日のゼミも盛況で、1時間半で終わる予定だったのに、正味2時間半くらい要した。懇親会も終電近くまで行なわれ、僕も若手もほぼ最後まで残ってゼミ本編+余韻を楽しんだ。
ただ僕もガチで参加している身分なので、ほぼ若手社員のことは放ったらかしにしてしまった。猛省しつつも、以下のような気付きを得たので結果的にプラスだったと思っている。
意欲的に質問をしていた若手
前述の補足。
彼が楽しんでいたというのは、本人から後日聴いたのではなく、一緒に参加していたゼミ仲間から窺ったものだ。有難いことにゼミ仲間が若手社員と多くの時間コミュニケーションを取ってくれていたのだ。
遠目からその様子がチラチラと目に入っていたので、帰り際に「うちの若手がすみません」と若干の謝罪を交えた御礼を伝えたところ、「凄く意欲的に質問をしていましたよ!」と教えてくれたのだった。
「ああ、すみません。どんな質問してましたか?」
またまた思わずエクスキューズを入れつつ尋ねてみると「入社2年目でどんなことを勉強していましたか?」とか「今やっておくべきことは何ですか?」とか、そういった類の質問だったという。
それを聴いて思わずハッとした。
なんて純粋で、力強く、彼にしかできない質問であると。
斎藤孝さんが『質問力』という著書を出しているが、質問する力は世の中的に重要だとされている。質問をすることで相手の深い洞察を引き出すことができるからだ。
僕自身も常に頭の中に「問い」を持ちながら相手とコミュニケーションを持つようにしている。
そのこと自体はむしろ褒められることだと思うけれど、「こんな質問をしたら、相手はこう返してくるのではないか(そうしたら僕はこんな風に追って感想を伝えよう)」みたいなことを邪推するようになっているので、改めて顧みるとやり過ぎだと言えよう。質問することがルーティンになり過ぎて、結論ありきで話を進めている感がある。
それなりの社会人経験を積んだからできる業ではあるが、本来の目的からはやや逸脱している。
「その質問は本当に僕が今聴きたいことなのか?」「聴かないと致命的な後悔を残すものなのか?」その答えは否である。
知らず知らず、本当に聴きたいことが聴けなくなっているのだ。
本当に聴きたいことは、あまりに大雑把過ぎるから、言葉にすると小馬鹿にされるのではないか?と懸念してしまうのだ。つまり、「御社のニーズは何ですか?」なんて口が裂けても言えないということだ。
相手が言語化しづらいことは、答えやすいように柔らかなニュアンスで聴くのがセオリーなわけで。その質問が空気を読めているかいないかというのはガンガンと頭をぶつけながら知恵として身につくものだ。そうやってだんだんと社会人らしい所作が身に付くようになっていく。
そう行った意味で。
若手社員のまっすぐな質問は、本当に素晴らしいと思う。
きっと彼は、本当に聴きたいことを聴けたという意味で、その場の誰よりも大きな学びになったに違いない。主催者も「彼は肝が据わっていて素晴らしいね!」と絶賛だった。
若手社員が学ぶ意義
懇親会の冒頭、他己紹介の機会があり若手の紹介を振られた。
今回のレクチャーと彼の仕事で合致する要素ももちろんあるのだが、僕は「何も分からない社会人1年目を終え、2年目から視野を広げていくための学びが本格的になっていく」と確信している。それは僕が同じ頃に、グロービスの単科クラス「クリティカルシンキング」を受講して感銘を受けた経験に基づいている。
僕が通っている経営ゼミは、僕のような会社員も何名かいるものの、企業やNPOを主催または共催しているような、いわゆるツワモノが勢揃いしているゼミだ。社会人13年目の僕だって気負い過ぎてしまうくらい、緊張の連続な状況の中、社会人2年目の若者がどんな顔して過ごすのかはちょっと心配だった。
先に書いた通り、杞憂だったようだ。
彼にはこれからも、たくさんの学びを得て、たくさんの優秀な人たちと話をして、彼しか歩めないキャリアを築いていってほしい。先週末の講義がそのきっかけの1つになったとしたら望外の喜びだ。
それを実務で後押しするのは間違いなく僕自身なので、その責任の重さを自覚しつつ、また明日から仕事に勤しんでいきたいと思うわけです。
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