コンプレックスと関係性(芥川龍之介『鼻』)
僕は小学生のとき「でべそ」に悩んでいた。
今思えば、へそがひょこり膨れているから何なんだ?という感じなのだが、当時の僕は、でべそを友人に気付かれるのを恐れていた。ものすごく。
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特に夏。プールが始まるのが怖かった。
泳ぐことは好きだったが、でべその露見は恐怖だった。だからスイミングパンツをへその位置まで上げて、へそが露出しないよう努めた。
でべそは年齢を重ね、体重が増加するにつれて自然と治った。
それ以降も身体的特徴に関して悩むことはあったけれど、小学生のときのような恐怖を感じたことはなかった。「他人の目を恐れて、アレコレ考えてもしゃーないやな」と開き直れたし、一度とことんまで恐怖を味わったのが大きかったのかもしれない。
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コンプレックスとは、他者との関係性の中で成立するものかもしれない。
芥川龍之介の短編小説『鼻』ではコンプレックスが描かれている。主人公の禅智内供(以下「内供」といいます)は、他者から「いかに見られているか」を常に気にしていた。
内供は、18センチメートルを超える巨大な鼻を有していた。その大きすぎる鼻は食事にも支障をきたし、弟子に鼻を持ち上げてもらわないことには食事ができないほどだ。
──けれどもこれは内供にとって、決して鼻を苦に病んだ重な理由ではない。内供は実にこの鼻によって傷つけられる自尊心のために苦しんだのである。
(芥川龍之介『鼻』より引用)
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自尊心は、自己肯定感やプライドといった言葉に代替されることもあるが、自尊心が傷つくきっかけは他者の存在があってのことではないだろうか。
例えば、こんな風に。
「侮辱される(ように感じる)」
「見くびられる(ように感じる)」
「軽侮される(ように感じる)」
「軽んじられる(ように感じる)」
自尊心が傷つくと、同じようなコンプレックスを抱える境遇の人間を探すようになる。(僕も当時、でべそ仲間を探していた)
ほとんどの同級生のへそはへっこんでいたけれど、何人かはでべそだった。
だけど不思議なことに、でべそな彼らは、自分のへそを意に介していなかった。(少なくとも僕には、そう見えた)
それが余計に僕の自尊心を傷つけた。「なぜ君は、僕と同じようにスイミングパンツを上げないのだ」と。
それから内供は、絶えず人の鼻を気にしていた。(中略)内供はこう云う人々の顔を根気よく物色した。一人でも自分のような鼻のある人間を見つけて、安心がしたかったからである。だから内供の眼には、紺の水干も白の帷子もはいらない。まして紺子色の帽子や、椎鈍の法衣なぞは、見慣れているだけに、有れども無きが如くである。内供は人を見ずに、ただ、鼻を見た。
(芥川龍之介『鼻』より引用)
他者への「歪んだ」関心は、内供も同じだった。
視野がその1点に集中する気持ちが、僕には痛いほど良く解る。
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芥川龍之介さんが『鼻』で描いた世界は、表面的な記述だけ見たら「滑稽」に映るかもしれない。自分の鼻を短くするための涙ぐましい努力や、弟子を巻き込んだ治療など、コミカルさに富んだやり取りも数多い。
しかし『鼻』が時代を超えて語り継がれているのは、そこが本質的ではないと読者が気付いているからだ。多かれ少なかれ、内供が鼻に抱いたようなコンプレックスを誰もが有していて。心の中で「わかる、わかるよ」と内供に共感しているのではないだろうか。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『鼻』は上述したようなコンプレックスだけを描いた作品ではありません。周囲の人たちが「無意識に何を望んでいるのか」といった人間の暗部をほのめかす、批評性の高い小説だと僕は感じます。
既に読んだことがある方も、電子書籍であれば無料でダウンロードすることも可能です。今改めて読むことで得られる気付きがあるかもしれません。
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