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多重性、そして嫌なやつ。(朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』を読んで)

医師免許を持つ1981年生まれの小説家、朝比奈秋さんの芥川賞受賞作となる『サンショウウオの四十九日』。

以前、アメリカで話題になった結合双生児という症状。身体は同じだが、性格も意識も異なるらしい。

本作の主人公は、そんな結合双生児として生まれた杏と瞬(いずれも女性)。叔父の死をきっかけに「私」を見直すことになる物語だ。

『サンショウウオの四十九日』
(著者:朝比奈秋、新潮社、2024年)

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小説の読み方は、人によってそれぞれだ。

物語の筋をそのまま追いかけ、娯楽的に味わうのも、それはそれで楽しい。

だけど私は、ひとつレイヤーを上げて、物語の構造を俯瞰するよう努める読み方を推奨したい。読み方を少し工夫するだけで、テキストで書かれていたことが、全く違う様相にて呈することもあるからだ。

本作も、結合双生児という“レアケース”を扱った作品として読むこともできる。だが私は、本作こそ、巧みなメタファーが散りばめられた小説的小説のように感じた。結合双生児という主人公を通じて、“ひとり”の人間の頭の中に生じる微妙な差異について言語化されている。

リアリティという意味では、フィクションのそれとは異なり、深層心理の世界にずけずけと入り込んでいるような「世界」が見える。

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例えば、杏と瞬はどちらも性的指向は異性愛だが、好きな男性のタイプは異なる。瞬が異性とキスしたことで杏は「トラウマ」を抱えることになったシーンも描かれている。

「まあ、そういうこともあるよね」と納得しそうになるが、これがもし、ひとりの人間の頭の中だとしたらどうだろう。破綻していると思うだろうか。私は思わない。

蛙化かえるか現象」という言葉が示唆するように、好意を抱いた相手だったとしても急速に気持ちが冷めることがある。「きっかけ」の有無などは関係ない。心から愛している相手を、同時に、ただひたすら憎く思うことはあるのだ。良くも悪くも。(それはDVや虐待というケースに限らない)

高校生の頃、友人との関係が一夜にして破綻したことがある。前日にめちゃくちゃ機嫌の良かった友人が、翌日豹変して、態度が悪かったのだ。確かにいくらか私にも非があったのだが、そんなに怒る理由には該当しないはずで。友人にも私の非を言いふらしていた彼の言動を許容できず(そして、私の虫の居所も悪かったため)、信じれらないくらいの大喧嘩に発展した。

未だに、彼との関係修復には至っていない。(至るつもりもない)

そのとき私は、彼のことを「浮き沈みが激しいヤツ」だと思った。(彼もまた、そのように感じただろうか)

でもこの小説を読んで、そういった見方は、あまりに安直ではないかと思うようになった。人間には、内面に多重な人格を有している。それは解離性同一性障害という症状とは別の(通底しているのかもしれないが)多重性だと私は思う。つまり、誰しも有している多重性ということだ。

もちろん、私は専門家ではないので、その辺りの事実関係は分からない。でも本作は、杏と瞬の「特殊性」を借りながら、人間の多重性に言及しているような気がしてならない。

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本書には、校外学習で博物館を訪ねるシーンがある。オオサンショウウオにおける陰陽図を見学していると、博物館の館長がこんな解説をする。

「たとえば、これなどは白と黒が対立しているだけですよね。まったく補い合っていない。こっちはどうでしょう。えらく一方的ですよね。白が中心をとっちゃってる。黒は周りをとっているけど、不均一で対等ではなくなっていますよね。これなんかはどうですか、惜しいですね。だいぶ完成に近い。相補相克ではありますが、自分の中に相手の色がないので、陰極まって陽となる、陽極まって陰となる、とはなっていないので循環は表現できていない」

(朝比奈秋(2024)『サンショウウオの四十九日』新潮社、P80より引用)

複数の側面とは、多くの場合、独立して存在しているわけではない。

お互い絡み合って、あるいは対立し合いながら、当人の人格をつくっていく。きれいに循環している人間もいれば、“えらく一方的”である人間もいるだろう。

それが個性として社会が構成されていくわけだが、その違いが(誰ともなく定めた常識という名の)閾値を超えると、“異常”なものと見做されてしまう。

多重性から派生する「違い」など、誰にでも存在する。なのに「違い」の幅が大きいだけで、異端、異常、レアケースとして放逐されるのだ。

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『サンショウウオの四十九日』では、ふたつの出産時・出産後のシーンが描かれている。そのどちらも、出産してしばらく経過した後で「レアケース」だと気付かされる。

まあ、そりゃ、気付かないだろう。そんなことあるわけないって、決めつけているから。偉そうに講釈垂れる的な文章を書いている私だって、「これっておかしくね?」って、だいたいのことに気付かないもの。日々「インクルーシブが大事」と唱えている私も、無意識にレアケースを排斥しているのだ。

そのことを明るみにした本作は、実に批評性の高い小説といえるだろう。冒頭、パッと読んだだけで物語の構造に気付くのは難しい。その難しさに腹を立てる読者もいるかもしれない。でも私は、「『そんなことで腹を立てる読者』に腹を立てる(あるいは、腹を立てようとする)」著者を信頼したい。

みんな、SNSのそこかしこで腹を立てている。でもたぶん、その怒りは数日後(数時間後?)には、きっと忘れてしまう。映画「先生の白い嘘」であれだけ怒り狂っていた人たちは、いまだにこの現象について追いかけているだろうか。いないよね。いる?いたら、ごめんなさい。(その方とはきっと、友達になれる)

この文章は、だいたい2,500字を超えた。たぶん読みづらい。でも、たとえ読みやすい文章だったとしても、ここまで至れる読者など限られているはずだ。だから、いや〜なことは、最終盤にこっそり書いておけばいい。でもこれって、政治家がよくやる手法かもね。おれもまた、陰陽のグラデーションの中で生きているんだ。

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