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砂に抗えるか。(安部公房『砂の女』を読んで)

久しぶりに安部公房『砂の女』を読んだ。

砂丘へ昆虫採集に出掛けた学校教師・仁木順平が、砂まみれの村に軟禁されてしまう物語。1962年に刊行され、「自由とは何か?」「何のために生きるのか?」といった普遍的なテーマが、“現実にはあり得ない”ような寓話小説として描かれた作品だ。20数か国語に翻訳された安部公房の代表作だ。

物語はほとんど、男自身の葛藤と、男と女のやり取りのみで構成されている。砂の穴奥深くに幽閉された主人公(男)が、どうかにして脱走を試みる。「一晩だけ宿を借りただけなのに、こんな仕打ちがあるか」と憤りながら。

村のルールは、主人公が話すように理不尽極まりない。
たまたま立ち寄った村で、生涯、「砂を掻き出す作業員として暮らせ」というのだ。

村人たちは結託して、男の存在を秘匿する。穴底には同年代の女がいて、ふたりで生活を共にしなければならない。「穴から抜けられるわけがない」と諦める女に辟易した感情を抱きながら、やがて身体を重ねるようになる……。

そんな理性と欲望まみれる展開に、えもいわれぬリアリティを感じるのが『砂の女』が名作たる所以であろう。

誰も納得できないルールや秩序。しかし主人公は次第に気付いていく。ルールや秩序に反目する理由はあるのか、と。久しぶりに読んだ新聞に対して、男はこんな感想を抱く。

新聞記事も、相変らずだった。どこに一週間もの空白があったのやら、ほとんどその痕跡さえ見分けられない。これが、外の世界に通ずる窓なら、どうやらそのガラスは、くもりガラスで出来ているらしい。
<<法人税汚職、市に飛び火>>……<<工業のメッカに、学園都市を>>……<<相つぐ操業中止、総評近く、見解発表>>……<<二児を絞殺、母親服毒>>……(中略)……<<南ア連邦に、再び暴動、死傷二百八十>>……<<女をまじえた、泥棒学校、授業料なし、テストに合格すれば、卒業証書>>
欠けて困るものなど、何一つありはしない。幻の煉瓦を隙間だらけにつみあげた、幻の塔だ。もっとも、欠けて困るようなものばかりだったら、現実は、うっかり手もふれられない、あぶなっかしいガラス細工になってしまう……要するに、日常とは、そんなものなのだ……だから誰もが、無意味を承知で、わが家にコンパスの中心をすえるのである。

(安部公房(1981)『砂の女』新潮文庫、P102〜103より引用)

極限状況にあった彼が、最も情報を欲していた村の「外」の情報。

しかし、それらは思っていたよりも男にとっては「どうでもいい」情報に過ぎなかった。『華氏451度』で初めて本に触れたモンターグが、「読む」世界に傾倒していったのとは真逆である。(ちなみにこの後、男は別の記事に「自分を貶める」ような意図を感じるのだが、全くの言い掛かりで、今風にいうと陰謀論的な視野狭窄に陥ってしまったように思える)

そもそも男は、砂を自由の象徴のように感じていた。風によって簡単に流れる砂は、流動性が高く、その場に留まらざるを得ない人間の対極にあるものと見做していたのだ。

だからこそ「砂は腐る」と言い捨てた女のことが、男は許せなかった。強弁して“論破”したつもりになったは良いが、間もなく男は砂の恐ろしさを体感することになる。暑く、厚く、重く押し寄せる砂のせいで、文字通り、男と女は生命の危機に瀕するのだ。

*

小説の冒頭で、「誰にも(行方不明になった)本当の理由がわからないまま、七年たち、民法第三十条によって、けっきょく死亡の認定をうけることになった」と書かれている。つまり穴底に落ちた時点で、男は「逃げられなかった」ことが半ば示唆されている。

だが本を読み進めていくうちに、男は「逃げられなかった」のでなく、「逃げなかった」ことに気付くようになる

・自由の中の不自由=現実
・不自由の中の自由=砂の穴底

としたときに、男は不自由(の中の自由)を選んだのである。

「納得がいかなかったんだ……まあいずれ、人生なんて、納得ずくで行くものじゃないだろうが……しかし、あの生活や、この生活があって、向うの方が、ちょっぴりましに見えたりする……このまま暮していって、それでうなるんだと思うのが、一番たまらないんだな……どの生活だろうと、そんなこと、分りっこないに決まっているんだけどね……まあ、すこしでも、気をまぎらせてくれるものの多い方が、なんとなく、いいような気がしてしまうんだ……」

(安部公房(1981)『砂の女』新潮文庫、P231より引用)

これは最終盤の少し手前における男の発言だ。

脱走を企てたものの失敗した男にとって、それは致命的に悔しいはずなのだが、本心で悔しがっていないことが分かるだろう。

そもそも男は、何から逃げようとしていたのだろう。そんな新しい問いが、再び心にもたげてくる。

さて、あなたは砂に抗えるだろうか?

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