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続・「テクノロジーは何も幸福を生み出していない」という仮説に対して(テッド・チャン『息吹』を読んで)

以前このようなnoteを書いた。

一部のテクノロジー界隈の人たちを除けば、「テクノロジーが社会の諸問題を解決する」と信じている人は少ない。

そんな“常識”を殊更持ち上げる必要はないが、SF作家のテッド・チャンさんによる18年ぶりの新作短編集『息吹』を読み、テクノロジーがもたらす負の側面が奇妙な感覚で補完された。

未読の方、SF小説に馴染みのない方こそぜひ読んでもらいたい作品である。

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僕が特に印象に残ったのは「偽りのない事実、偽りのない気持ち」という物語だ。読んだ方が短い感想をブログに記しているが、これに尽きる。

これこそテクノロジーに対する物語、小説の挑戦だと思った。
ナイジェリアのティブ族という口承文化をもつ人々を物語に据えたのもチャンならではだと思う。
ほんとうの記憶を人が持てたら、人類はどう変わるのだろうか。
まるでボルヘスの数的な迷宮を思い出す。
(ブログ「低い城の羊男:「偽りのない事実、偽りのない気持ち」テッド・チャンを読む。」より引用、太字は私)

物語に登場する「リメン」というテクノロジーは、ライフログツールの一種。自分を含めた環境の言動の一切を記録するというものだ(おそらく身体にカメラが埋め込まれている)。

朧げな記憶を思い出すのに便利なツールだ。「○○のとき、私は何て言ってたっけ?」と呼び掛けると、当時の発言を検索して視野の片隅に投影してくれる。

言わば、記憶の検索エンジン

リメンを使うことによって、「忘れる」ということがなくなるわけだ。

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「忘れる」というのはネガティブな文脈で捉えられがちだ。

会議で合意したことを忘れたり、誤った理解のままで仕事に取り組んでいると「あのときの会議で○○と言ったよね?」と糾弾される。殆どが個人の不注意に起因している。

それでも。これまで僕らの社会では、「忘れる」という人的エラーは「仕方のないものとして」ある程度許容されてきた

それは人間であれば誰しも忘れるわけで、お互いさまという側面があるからだ。

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「忘れる」ことは、人間にとって欠かせない能力の1つだ。

本書でも次のように書かれている。

しかし、たとえリメンが、望まない過去の情報でつねに視野の一部をふさいでいるわけではないとしても、ただイメージを完璧にしたことから生じる問題はないのだろうか。
「許して忘れよ」という言葉がある。理想化された度量の広い自分にとっては、必要なのはそれだけだ。しかし、現実の自分にとっては、このふたつの行為、許すことと忘れることとの関係は、そう簡単ではない。わたしたちはたいていの場合、許せるようになるまでに、いくらか忘れる必要がある。苦痛を新鮮なものとして経験しなくなったとき、侮辱されたのを忘れることがそれまでより楽になり、今度はその結果として、記憶にとどまることが少なくなり、以下、そのくりかえし。この心理的なフィードバック・ループのおかげで、最初は激怒していた侮辱が、過去を映すバックミラーの中で、だんだん赦せるものに見えてくる。
(テッド・チャン『息吹』P231〜232より引用)

過去の発言や行動を全く忘れることができなかったら、人間はそれらに縛られて前に進むことができなくなってしまう。

記憶が曖昧になり、ある意味で美化(正当化)されることで、過去の負のディテールは「なかったこと」にできる。先にも記した通り「忘れる」はお互いさまだから、許容範囲の中で未来を前向きに作っていけるのだ。

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しかし、リメンは「忘れる」を許容しない。

「あのとき○○と言ったじゃないか!」
「違うよ、●●と言ったんだよ!」

といった意思疎通の齟齬はよくあることだが、リメンを使うことで、どちらかの「正しさ」が証明されてしまう。その場の解決が求められることではあるけれど、将来における遺恨に発展したり、後戻りのきかない「記憶」として記録され続けることになるという不都合が生じてしまう。

それは、誰もが求めていることなのだろうか。

喧嘩両成敗は「喧嘩に際してその理非を問わず、双方とも均しく処罰する」という原則だ。正しさを求める人にとっては理不尽そのものだ。それでも長期的にみれば、双方が良い関係を取り戻していく口実になる。

人的エラーを数多く経験してきた人類は、未熟なりに学びを深めてきた。表面的には理不尽だと思われる制度を作り、運用する。妥当性が高い試みなのだ。

テクノロジーが真実を映す鏡として、有効であると期待されている。

その一方で失うもの / 失う可能性があることを、僕たちはしっかり認識すべきだ。そんな警鐘性を本書から読み取ることができる。

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もちろんテクノロジーがもたらしてきた恩恵は偉大だし、それに関わってきた全ての人たちの仕事には敬意を払いたい。(仕事柄「ITで世の中を変えたい」という想いを持った学生に出会うことも多い)

だけど、そんな今だからこそ、テクノロジーが本当に、人間のために不可欠な存在たるものであるべきなのか、は再考しなければならないだろう。

テクノロジーのない生活には、もう戻れない。

だからこそ、彼らとの上手な付き合い方を考えたいと思うのだ。

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*おまけ*

テッド・チャン『息吹』ですが、読書ラジオ「本屋になれなかった僕が」で配信しています。お時間あれば聴いてみてください。

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