多数決を超えていくことができるか?(斎藤文男『多数決は民主主義のルールか?』を読んで)
多数決って何だろう?
子どもの頃から、何度も「何かを決定するときに」行なわれてきた多数決。
5人で物事を決めるとき「最後は多数決で3人だった方が勝ち」というのは、もはや所与のものとして受け入れてきた。
だから政治経済の授業で「少数意見の尊重」と言われてもすぐには納得できなかった。同じくらい、多数決で大事なことがオートマティックに決定されることにも違和感があったのだけれど。
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斎藤文男さんの近著『多数決は民主主義のルールか?』を読むと、多数決は万能でなく限界があることが理解できる。万能ではないと書いたのは、多数決とは所詮、「人間がどのように多数決を用いるか」にかかっているという意味だ。
例えば国政選挙は、市井の人々がリーダーを決めるものだ。2021年の衆議院議員選挙では与党が勝利、投票結果によって、与党がこれまで行なってきたことが信任されたとの見方が多数を占めた。
よくよく考えてみると、衆議院議員選挙は国家権力を握る与党によって仕切られている。どんな争点を設定するのか、表決(投票)の時機はいつが最適なのかなど、与党の裁量がかなり大きい。
もちろんこれは事前に定められたルールなわけだが、100%公平かと言われれば疑問符がつく。
例えば解散時期が、コロナウィルス感染拡大のピーク期だったとしたら。与党が同じように大勝できたかどうかは怪しい。それまでの地方選挙では、野党が推薦した候補者がことごとく勝利しており、衆議院議員選挙で与党が大敗するのでは?という見方もあった。
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さて、本書の問い「多数決は民主主義のルールか?」について、斉藤さんは以下のように結論づける。
さらに斉藤さんはヒトラーのナチズムを例示して、多数決は圧政の手段にもなり得ると警鐘を鳴らした。
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多数決が万能でないことは前述した通りだが、先人は賢く、多数決によって圧政を防ぐ仕組みを作ってきた。
議会政治、司法を含めた三権分立、法の支配(立憲主義)などの仕組みは、完全ではないけれど、権力の暴走を防ぐ役割を担っている。(逆に権力者は、これらを常に無力化しようと画策している)
また一国民主主義における多数決では解決しない問題も増えてきた。
貧困問題、気候変動への対応、一般データ保護規則(GDPR)などはその典型だろう。
多数決はいくら多数派になったとしても、基本的人権を損なうことは許されない。そして人々の基本的人権は、もはや国内だけでは制御できない問題になりつつある。
自国の中で多数決をとるやり方は有効でなくなっていくだろう。他国との利害関係を調整する話し合いを行ない、ベースとなるルール作りができるかどうか。もちろんこれも主導する国が優位に立ちやすいわけだが(アメリカと中国・ロシアが激しく覇権争いをしているのは、まさにこの枠組み作りに関することだ)、そこに多数決という古くからの手法は影を潜めている。
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ときどき、日本人は議論が苦手な国民だ、と言われることがある。
それは昨今流行りの「相手を論破できる」とかそういうことではなく、意見を交わすことによってお互いに合意形成ができるかどうかということだ。
それは、折り合いをつけられるかどうかという言い方もできよう。
価値観が多様化し、個々に分断が発生している世の中だからこそ、人々は多数決でなく議論による合意形成を目指すべきだ。必要性に迫られている今、、議論の土壌をしっかりと耕すことも重要だ。
やるべきことが山積している。常に学んでいかなければならない。
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*おまけ*
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