「自分の夢や可能性がまだ無限に思えたこの場所」とは?(映画「ラストレター」を観て)

岩井俊二さんが監督で、松たか子さんが主演。

期待ばかりが膨らんだ映画「ラストレター」は、どうしても高校生活=青春の眩しさを直視できず、「手紙」という普遍的な装置が幾重にも織り成す物語に浸れずに終わってしまったなあという印象を持った。

もっと言うと、高校生のときの恋愛を引き摺り(敢えてこういう表現を使ってしまいます)、25年間も同じ女性に好意を持ち続けることは可能だろうか。なんてことを思ってしまう。やや設定に無理があるんじゃないかと。

それもあって、役者の振る舞いが役者っぽくて「ああそうなんだよこれってフィクションなんだよね」なんて思わせる悪循環に陥ってしまう。

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そういったギミックをいったん無視して。(完全に無視はできないが)

タイトルの台詞について私見を。これは遠野未咲(演・広瀬すずさん)が25年前の卒業式答辞で述べたこと。

改めて振り返ってみると、予言というか、大人になるにつれ様々なことが有限に狭められ、むしろ選択肢なんて何ひとつありはしないことを示唆するような「ひどい」答辞だったように思う。(もちろん岩井さんが意図したことでもある)

選択肢が狭まった(なくした)人たちが、抗いもせずに時間をただただ無為に過ごしてしまう。学習性無力感と言うべきか、「どんなヘマしたって他人のせいだ」という邪悪なメッセージが根底に流れている。だから観ていて、すごくしんどい。

かろうじて鏡史郎(演・福山雅治さん)が、最後の最後で「不吉な予言」に抗うことを決める。

それはそれで救いなんだけど、でもやっぱり、決着ってもっと早くつけられなかったのかな?と思ってしまう。

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ケチばかりつけてしまったが、美咲の人生を狂わせた阿藤(演・豊川悦司さん)が「続編書けよ。でも一人称なんかで書くなよ」と言っていたのは印象的だった。

つまりは三人称で書けよ、ということなのだろう。

作家にもよるけれど、おそらく一人称よりも三人称の方が情緒てきな質感を醸し出すのは難しい。一人称の方が、「僕」「私」の想いがダイレクトに読者に届く。(まして本編で書かれた『美咲』という小説は、鏡史郎の恋慕が色濃く反映されている)

だけど、そこにどれほど(見知らぬ)読者が想いを重ねることができるだろうか。たぶん阿藤は、共感できなかったに違いない。イマイチ、俺(阿藤)よりも鏡史郎の方が優れていると思い切れなかったのではないか。

たかが人称、されど人称である。夢や可能性は、いつだって無限に存在する。それを個人が、自ら潰す必要なんて何処にもないのだ。

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