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急に具合が悪くなったら、僕はどうなるだろう。

哲学者の宮野真生子さん、人類学者の磯野真穂さん共著『急に具合が悪くなる』を読んだ。生死を境に繰り広げられる10便の往復書簡に、何度も僕の心は疼き、叫びたがっていた。

大袈裟ではない。

彼らのテキストのいくつかに、僕は、実際に声を出して呻いた。

本のことを知らない方に、簡単に本書のことを説明する。『急に具合が悪くなる』は、ガン闘病をしていた宮野さんが、学会を通じて知り合った磯野真穂さんと、病を抱えて生きることの不確実性やリスクの問題ついて語り合いたい / 専門的に深めていきたいと思ったことがきっかけになっている。2018年秋に医師から「急に具合が悪くなるかもしれない」と告げられていた宮野さんは、往復書簡を交わす最中に本当に具合が悪くなってしまう。

なんという巡り合わせか。

概念としての「死」ではなく、当事者としてフィジカルに「死」と向き合った二人が、どのように「死」(あるいは「生」)を捉えていくという話だ。

*

宮野さんと磯野さんは交互にやり取りをしながら、問いを投げ合い、回答を試みながらそのやり取りを「間違いなく」昇華させていく。

言葉は言葉であって、言葉でないような。魂の交歓というとやや情緒的だけど、学者らしく適切に言葉を交わしながらも、思いがけず脱線して別の方角へ足が踏み込まれる様子を、読者は目撃できる。

偶然とは何か。
必然とは何か。
確率とは何か。
意志とは何か。
時間とは何か。
運命とは何か。
選ぶとは何か。
生きるとは何か。
死ぬとは何か。

めまぐるしく巡る問いの応酬と、軽やかで鮮やかな着地。

二人のプライベートな対話が普遍性を帯び、本として成立しているのは(もちろん二人が出版ということを意識しているにせよ)、奇跡的なことのように僕は思える。

この経験を思い出すと、そもそも「選ぶ」って何だろうと思うのです。合理的に比較することはできるけど、私たちは本当に合理的に「選ぶ」なんてできるのだろうか。そんなふうに「選ぶ」ことが「選ぶ」ということなのだろうか、と。結局のところ何かに動かされるようにしてしか決めることができないのなら、選ぶとは能動的に何かをするというよりも、ある状態にたどりつき、落ち着くような、なじむような状態で、それは合理的な知性の働きというよりも快適さや懐かしさといった身体感覚に近いのではないか、そして身体感覚である以上、自分ではいかんともしがたい受動的な側面があるのではないか、と。
(宮野真生子、磯野真穂『急に具合が悪くなる』P50〜51より引用、太字は本書ママ)
しごく当たり前のことですが、病気というのは、私ひとりの身体にふりかかるものでありながら、私一人にとどまってくれません。周りの人に波及し、その変化がまた私を乱します。病のなかで何かを「選ぶ」ということもまた、この変化のうちにあります。
(宮野真生子、磯野真穂『急に具合が悪くなる』P66より引用、太字は本書ママ)
素朴な問いを投げたいと思います。そもそも、「生きる」って何なんでしょうね。だって、私たちは誰一人として自分の意志で生まれていません。いつ生まれるかも選べず、強制的にこのようなモノとして一個の肉塊が与えられ、点として産み落とされる。そして、「いつか必ず死ぬ、しかし今ではない」と未来へと差し向けられ、時間のなかを進んでいくことを求められる。
そのくせ、寿命が尽きれば一方的に終わりが与えられ、死んでいくしかない。消えるしかできない点。ただし、消えるしかできない点が産み落とされるのは、孤独な一人の世界ではありません。そこは、無数の点たちがなんとか自分のラインを引こうと苦戦した痕跡に充ち、もちろん今まさにラインをひく運動をしている場なのです。そうした場へと私たちは産み落とされ、生きていく。
(宮野真生子、磯野真穂『急に具合が悪くなる』P198より引用、太字は本書ママ)

*

この本を最初に見たとき「妙なタイトルの本だ」と感じた。
率直に言うと「売れなさそうだ」と思った。

だけど今は、このタイトルより相応しいものが、全く思いつかない。

急に具合が悪くなったら、僕はどうなるだろう。

混乱するだろうか、泣くだろうか。それとも笑ってしまうだろうか。残される家族のことを想像し、途方に暮れてしまうだろうか。

残念なことに「急に具合が悪くなる」という状況に、今、まさに陥っている人たちは確実に存在するのだ。統計的な観点でみれば、それは偶然ではなく、確率の問題で一定数が陥ることになる「必然」なのかもしれない。

一日にタバコを2箱吸うヘビースモーカーがピンピンしながら寿命をまっとうするかもしれない一方で、健康に細心の注意を払っていても不慮の病気にかかり早死にしてしまうかもしれない。かもしれない、かもしれない。急に具合が悪くなる「かもしれない」。

同じような立場になったとき、僕は宮野さんのように、フィジカルな問題として、強く賢く死に向き合うことができるだろうか。

健康で、たいていのことなら何でもできる体力(と僅かばかりの知力)がある今だからこそ、死を意識しながら日々に向き合えることができたら。

怠惰な性格に嘆くこともあるけれど、そこに甘んじて止まるのでなく、少しでも先のラインを目指して投石すること。それが残された人間の責務なのかもしれない。

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