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日本人研究⑤集団との一体化

前の記事では、大部分の日本人の特徴

「内的不確実感」とも呼ばれる自我の不安定感について述べたが、これはどう解消できるか。


集団依存主義

一般に日本人は「集団で群れる」などとよく言われるけども、集団行動は、人間の普遍性である、と反発する人もいる。

しかし、日本人の場合、第一に、自己責任による不安、あるいは内的不確実感とも呼べる自我の弱さを、集団への依存によって和らげる。

日本人は個人だと控えめで遠慮がちだが、集団(匿名も!)になると人が変わったように積極的になるということは、しばしば外国人が指摘するし、同じ日本人でもそう感じる人も多いようである。


赤信号みんな渡れば怖くない

個人決定よりも集団決定のほうが、安心感をもたらしてくれる。その場合、自分が決めた方でなく、みんなで決める場合には、そこに自己決定にともなう自己責任の部分が、集団決定による集団責任に吸収されて、それだけで気分が軽くなるからである。


運命依存主義

日本人は集団への所属意識が強いという意味で、集団依存主義の傾向に傾くが、またそれと平行して運命への従属と依存を感じる運命依存主義の傾向も持ち合わせている。ここに運命共同体意識が生まれる。

運命依存主義は、人間の力ではどうしようもできない運命(さだめ)に、自らの身を投げることで安心感が得られるのである。

今日でも盛んに行われる運命判断の手相、人相、家相、印相、墓相などから、コンピュータ占いまで、他人依存の決定と予想がますます要求されている。

科学的な根拠がないにもかかわらず、それに依存する人が非常に多いことは、日本人の迷信好みというよりも、むしろ、決定不安と予期不安の傾向から来ている部分が大きいと思われる。それは運命に責任を負わせて、自己決定による自己責任の回避を求めることができる。

また一方では、「もはや逃れられない運命」ということばが物語るように、「しかたない」「しょうがない」とあきらめる。

それと同様に、日本人は、「もはや逃れられない集団」のなかに自分を投げ込んでいる場合が多い。

たとえば、会社と運命を共にするという気持ちは、日本人の企業への忠誠心の最も適切な表現となっている。

日本に独特な「新卒一括採用・年功序列・終身雇用」といった雇用ルールもそう。

SNSにおいて昨今の若者に目立つ「安定さん」「相互」も同じで、自分が所属する集団を固定化する傾向も生まれる。

あるいは、日本に見られる「論壇」「文壇」と呼ばれる論客たちは、文学者であれ、学者であれ、政治家であれ、インターネットの右翼であれ、左翼であれ、かつての安保闘争であれ、学生運動であれ、主張そのものは専門的であるけれど、その所属する集団構造は、あくまで日本的なもので、「集団的自我」に支えられている場合が多い。


このように運命と結びついた集団、つまり、運命共同体集団が作られて、個人を超越した力によって自我の決定力が強まることは、運命をシェアした集団への威力への依存であるが、そこには自我の集団への心理的な無意識の一体感による「集団的自我」の形成プロセスが見られる。

集団的自我は個人的自我を支えてくれる。そして、内的不確実感を打ち消す役割を果たす。


集団との一体化(他者との無意識なる一体感)

日本人の自我特徴の一つは、自分の所属する集団の目標活動と内部の人間関係に深い親和感を持ち、自分の自我を集団と一体化させて、そこに「集団的自我」とも呼べる意識を形成するのである。

これは集団に所属していることがポジティブな意味を持つということであり、強い所属意識と依存意識から成り立っている。

集団との一体化は、先にあげた集団依存主義や運命依存主義とも結びつき、集団の運命と個人の運命を同一視する意識をも生む。集団を運命共同体として受け取る意識である。

この場合、日本人の内的不確実感は、他者との一体化を媒介として集団的自我の意識を生む。そこで自我は集団的自我を含んで拡大強化される。そうして集団の力を、自己の力だと思い込み、内的不確実感を一応軽くはできる。

しかし、結局、個人の主体的自我は発達せず、内的不確実感、不安感、脆弱な個、弱い精神、もろさから抜け出すことはできない。

このように集団的自我の強さを自我の強さと取り違えるところに、日本人の心理的な悲劇が生まれる。




次に、日本人の集団的自我の意識をより具体的に述べたいと思う。

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