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なぜ日本人は劣等民族か

「敗戦の日」を迎える八月十五日、本来は、日本人にとって、「屈辱的な日」であらねばならない。なぜならば、戦争をするのであれば、必ず勝たなければいけないからである。しかし、見事なほど、焼け野原、本当にこれ以上にないくらい完膚なきまで叩きのめされた。


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次、戦争をするのであれば、いや、元来、国家として戦争というシミュレーションはしなければならないのであり、そして、必ず勝たなければならない。

しかし、この時期は、「欲しがりません、勝つまでは」から「「過ちを繰り返しません」」を思考停止のように念仏として唱え、いわゆる「「軍国主義批判論」」が世の中に溢れているが、私は一種の違和感をもっている。


戦前の日本に、はたして軍国主義があっただろうか。

上の記事(「なぜ日本人は弱いか」)に詳細は記したけれど、少なくとも軍国主義者は、軍事力しか信じない。だから、軍事力への冷静な判断、緻密な計算、つまり、「戦略」があるはずである。

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確かにナチス・ドイツは、ソビエトの軍事力への判断と計算を誤った。しかし計算を誤ったことは、計算自体がなかったことではない。ナチス・ドイツの一連の流れは、ある種の戦略が存在していたことは否めない。

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ある意味ではソ連・スターリンもすぐれた軍国主義者であった。「法王は何個師団もっていますか」という彼の言葉は、思想の力を全然信じず、軍事力だけを信じてきたことを示す。


一方、日本はどうであったか。

中国や英米の軍事力を正確に計算したであろうか。そして正確に計算したつもりで誤算をしたのであろうか。一体、自らが何人の兵隊を動員して、それを何年持ちこたえうると計算していたのであろうか。米・英・中・ソの兵力と、自らの兵力の単純な比較計算すら、やったことがないのではないか。私の調べた限りでは、こういう計算は、はじめから全く無いのである。


「ある明確な目的」を持って、そこからまさに計算(逆算)して、それを達成するための、「方法論」を必死に考え抜き、それを実行する「組織」を作り上げる。つまり、戦略がなかった。だから、それに基づいた方法や組織なんて初めからあるはずもなければ、出口さえなかった。


感情的に、衝動的に、目の前の刺激にただただ慌てて反応するだけだった。

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それが「敗戦の悲劇」であり、単に「日本軍が悪かった」「当時の指導者が悪かった」だけで済まされず、脈々と日本人の中に潜む「悪魔」を問題にしなければならないのである。

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たしかに、零戦パイロットを含めて、日本軍は非常に強かった。アメリカ軍の「劣った」一般兵卒に比べれば、日本軍の兵隊はよく訓練されていた。その意味では「優れていた」。

だがしかし、優れた戦闘機やパイロットがどれほど存在しても、「軍国主義者」の「一丁目一番地」である、戦争を合理的にマネージする。そういう視点がなければいけない。日本にはあったか。

否、見通しすら何一つない。
否、何のために戦争するのか理由すら、だれ一人として、明確に意識していないのである。

これが軍国主義といえるであろうか。私は、いえないと思う。

それは軍国主義以下だともいいうる何か別のものである。

恐ろしいものは、実はこの「何か」なのであり、これは今も変わっておらず、日本人の一人ひとりの中に潜む「何か」である。




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それが〈和〉である。

確かに日本人は、争いを嫌い、衝突を避けて、場の雰囲気や自分のメンツや相手を尊重して、「マア、マア」で全体の和を保とうとする。

それは物事を曖昧にするという意味でもある。

日常生活、彼らと話していても、ハッキリしないのでよく分からない、曖昧すぎだという印象が強い。

外国人からも「シャイな日本人」だとよく言われるけれども、これは日本人についての理解の浅さからくる、表面的な見方にすぎない。



「論争が国技である」イスラエルを見るとつくづく感じて、「国の破滅状態をよそに、論争ばかりしているから、何一つてきぱきと解決できないのだ」という気がする。彼らもそれに気づいているらしく、もちろん冗談だが「日本の聖徳太子の述べた、和を第一としたら……」などと思う。確かにそう言える面があるが、多くの人達が指摘する通り、「和」には恐ろしい一面がある。なぜ〈和〉が悲劇か。


日本人の集団には、「日本軍」が潜んでいる。それは秩序であり、部分よりも〈全体の一体感〉に最高価値を置く。


「軍部内の和を乱すまい」、不思議なことに、国の破滅がかかわるという状態になっても、このことが優先している日本軍と同じなのだ。


日本が「和によって亡ぶ」は必ずしも未来のことでなく、過去にすでに経験ずみなのである。

そして、今まさに日本で起こっていることだ。

日本人のなかにも、合理的な意見があるのは事実である。しかし、日本人集団は「それ」を決して許さない。それは「全体の秩序」を破壊する「悪」であり、「村八分」「いじめ」の対象になることがしばしばある。



目的の明らかでない作戦(アジア・太平洋戦争)を四年も継続し、いつ終わるか見当もつかず、何のためにやっているのかだれも明確に意識せず、はっきりしないといった状態は、自らこれを止めようと思えばできるのである。

コロナ禍も全く同じではなかろうか。

わかっちゃいるけれどやめられない。

それができない。なぜか。軍の面子にかけての反対が出るにきまっているし、そうなれば激論になって「和」は保てない。

敗戦後、日本軍の指導者を裁く東京裁判では東被告人の多くは、「自分個人としてはいかがなものかと思ったが、空気に逆らえなかった」といった趣旨の発言をしている。日米開戦の理由であった旨、述べているが、これもまた「和が保てません」である。


さらに、海軍は内心では開戦に反対なのだが、「陸海軍の和」と、マスコミと一部政治家が醸成した「空気」(ある秩序=)に押され、絶対に「反対」とはいわず、「総理一任」という形で逃げている。

いわばあらゆる面における「和=秩序」を破壊するまいとして、衝突がないからそれが一番安全と思い、それによって、日本人は破滅する。


危機の時代になってもこうだということを頭におくと、日本は「和によって亡ぶ」という言葉は、一種の不気味さをもっている。

日本人集団には「日本軍」が存在する。

このことは、日本企業でも、日本学校でも同じで、クラスにはクラスの、職員室には職員室の、企業には企業の独特な「和」があり、ある種の同調圧力のなかで、皆、ある種の着物を着て、モヤモヤして生きている。

この「和」が絶対化され、新しい風が全く入らない、ゆえに個人としても、全体としても、イノベーションが起きるはずもなく、パフォーマンスが低くなる。


私たちは、もやもやした古い着物を脱ぎ捨て、新しい価値観をアップデートする時代に来ているのではないか。

これを一人一人の日本人が意識・自覚・克服できないとすれば、やはり、日本人は、「劣等民族」と呼べるにふさわしいのかもしれない。


まさに「和になって滅びる」だが、そうやっていても、自分の身に災いが振りかかると思っていない。そして進駐軍が進駐してはじめて目が覚めるだろう。

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