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家族関係の危機って、誰のせい?

僕が住む街の市営バスは、運転が乱暴な運転手が多い。渋滞を抜け出すと突然スピードを上げたり、信号が黄色になっているのに走り抜けようとして間に合わず、車体が前後に揺れるほどの急ブレーキをかけたり。

僕たち乗客はそのたびにグラグラと激しく体を揺さぶられることになる。踏ん張りの効かないお年寄りは、座席に座っていても倒れそうになっていることも。

そんな時に決まって流れてくるのが運転手のこんなアナウンスだ。

「危険なので、しっかりつかまっててください」

乱暴な運転に頭をガクガク揺さぶられながら、心の中でこう毒づく。

「危ないのは、あんたの運転のせいだよ」

僕には同じバスに乗っている人たちの心のうちをのぞけない。だから、この僕の苛立ちが僕という人間だからなのか、それともみんながそう思っていることなのかはわからない。この乱暴な運転を、案外みんな「ふつうのこと」として受け入れているのかもしれない。

こんなふうに感じるのは、僕が「あまりふつうじゃない」人生を送っているからなのだろうか? 相方と30年近く付き合っているものの、結婚もせず子どもも作らず、それでもなんの不足もなく楽しく暮らしている。

ただ、僕たち二人の中に、しあわせな人生のために欠けているピースは一片もなく、この生き方ゆえの危機に瀕したことも全くないにもかかわらず、なぜか「それ」を指摘する声がなかったわけではない。

その人たちによれば、どうも僕たちのような人生は家族関係の危機や日本の未来の不安を呼び寄せるものなのらしい。

その上、僕はステップファミリーで育った人間だ。両親と僕は名字が違い、父とは血がつながっておらず、いろいろな経緯があって二人の戸籍に僕は含まれていない。今でもなかなか珍しい形態の親子かもしれない。

とは言え、珍しいあり方だからと言って僕たち親子がしあわせでなかったことはないし、正直言うと、周りのいわゆる「ふつうの親子」よりもよっぽど円満な家庭だったという感想しかない。イレギュラーなあり方は、僕たち親子の関係性の脅威にはまったくならなかった。

そして何より、僕たちは「ふつう」のあり方を攻撃したことなどない。ふつうに結婚して子どもを産み、離婚もしないまま家族関係が続いていくことをやめさせようと思ったことはないし、ましてや日本の将来や家庭を破壊するだなんて発想になったこともない。

ところが、僕の家族や相方との関係を見て「危険だ」「そんなの、おかしいんじゃないか」と言ってくる人がなぜか後を絶たない。僕らだけではなく、結婚を望むLGBTQの人たちや、夫婦別姓を求める夫婦に対しても。そんな声をかけられて、僕たちは愛想笑いもせず聞き流し、こう思うのだ。

そんな危険があるなんてことになったのは、あなたが言い出したからでしかないよ、と。

もう一度バスの話を振り返ってみよう。危険な運転をするバスの運転手は、危険な車内環境を自ら生み出しておいて「危険だぞ、ちゃんと身を守ってくれ」とアナウンスする。

身を守れとはつまり、結婚せず子どもも産まないとか、同性婚とか、夫婦別姓とかおかしなことはやめて「ふつうに生きろ」ということ。

そして指摘する「危険」は、僕たち「ふつうじゃない」人たちが大切な人との関係性の中では一切感じたことがないもの。むしろその危険は「お前たち、危険じゃないか」と乱暴な声をぶつけられる時に生じるもの。

まったく同じ構図なのだ。僕が乱暴な運転手のアナウンスに激しく苛立つのは、生きている中でこの構図にさらされることが多かったからなのだろうか?

こういう時に感じるストレスや批判する人の敵意のほうがよっぽど「危険」なのだが、僕たちのような者に対して「危険だ、日本の家族や未来を壊すな」と言ってくる人たちはそのことを理解しているのだろうか?

また、危険だ、未来が危ういと言うわりに、何がどうヤバいのか具体的に説明してくれることはほぼない。なぜかと言うと、おそらくそうした発言のそもそもの根っこにあるのが、僕たちのような人間に対する単なる「違和感」でしかないからだ。

さらに、そういう声を発している人は僕たちのような人間にその声が届かないことでストレスを溜めている。負のスパイラルだ。

僕たちはただ、自分なりに生きるので放っておいて欲しいだけ。運転手のみなさんはどうか優しくストレスのない運転を。

子どもを産みたい人も産みたくない人も、別姓のままでいたい人も同姓にしたい人も、LGBTQの人もそうでない人も、結婚したい人もしないままでいたい人も。

それぞれが自分でしあわせと思える選択肢を選べるような社会であればそれでいいんじゃないだろうか。もちろん、その選択肢が自分にとって良くなかったと感じた時にやり直せるのが容易な社会であることも必要だ。

そんな社会に「危ないので、しっかりつかまってください」「そんな生き方の人が家族や日本を壊すので、ふつうに生きてください」なんて言葉は要らない。

なかったはずの危険や「ふつう」が、そう言ったとたんにあることになっていってしまう。今の社会もそんな言葉がなければ、たぶんみんなもっとしあわせに生きられる。だって実際にそんな危険やふつうはないのだから。

今日、大阪地裁で原告の同性カップル3組の賠償請求を棄却する判決があった。その理由は同性婚を認めないのは「合憲」だから、ということらしいが、いつまでもこんな社会であることを深く憂う。

憲法や、いわゆる「ふつう」は、いつになったら現実ときちんと折り合いをつけるのだろう。僕がふだん感じている日常の苛立ちを例えにしつつ、今回の判決に対して思うことを書いてみた。

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