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小説: ペトリコールの共鳴⑮

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第十五話 愛しの遥香 ①


 ここに来るのは遥香へプロポーズをして以来、約3年振りになる。俺たちが始まった場所だからこそ、ハムスターのキンクマを連れて来たいと思った。

 この1年はジェットコースターのような、地に足がつかない月日だった。
 遥香のガンが再発し、余命3ヶ月と宣告された時は俺と遥香は一晩中ソファーの上で語らい、泣いていた。

「神も仏もないね。私、どうしてこんな罰を受けるのかな。タツジュンとおじいちゃん、おばあちゃんになっても添い遂げるんだって思ってた」
 俺は遥香へ気の利いたセリフが言えず、
「別の病院に行こう、な?セカンドオピニオンもある。うちの会社の人は余命半年と言われても5年は元気に仕事してるぞ」
うん、と頷く遥香は両手で口を抑えて嗚咽する。


「最期のお願い。ハムスターがほしい」
遥香が仕事を辞める前だった。

 遥香の気性は、投薬や治療の影響で激しい波。
元々の大らかで人当たりが良い遥香は、被害妄想から攻撃的な言葉を発し威嚇してくる。
 俺も精神的な疲労が溜まっており、少しでも気分が良くなるならと足を引きずり歩く遥香を連れ、
一緒にペットショップへ出掛けた。

 ハムスターにも種類がある。親指大の小さな個体から拳大の大きな個体。毛色も様々いる中で遥香は
「この子、静岡から来たんだって」
 ロングコートと値札に書いてある金色のキンクマハムスターは山になった藁の上へ二足で立ち、鼻をひくつかせながら宙を見ていた。

 他のハムスターは滑車を走るもの、藁で巣作りするもの、丸くなり寝ているものの中で、キンクマハムスターだけは想像しているハムスターとは異なる行動をしていた。

 キンクマハムスターは遥香を確認すると、両手で
「来い、来い」の仕草をする。
俺の目から見ても他のハムスターとは違った生き物に見えた。

「キンクマ、お家へ帰ろう」
遥香のひと言で、キンクマハムスターは
「キンクマ」と名付けられ、そしてうちへ連れて帰った。

 遥香はコバルト、放射線、投薬……あらゆる治療を施し、腰から足に痛みや痺れがあると言った端から嘔吐する。主治医が出したエビデンスのまま進行していく病気は爪まで剥がれてしまう。
「もう死んじゃうんだよ」遥香が泣き叫ぶ。
髪は抜け、痛みでのた打ち回る、せん妄と呼ばれるヒステリーを起こす。細い身体は更に痩せ細っていった。

 でも、キンクマがケージから出てベッドに近づくと遥香のメンタルは穏やかになり、夫婦の間に話題も増えた。このまま遥香は良くなるものと思っていた。


 遥香が旅立ち、まもなくして。
「ありがとう」
遺影や位牌、お供を置いた後飾り祭壇から子どもの声がした。気のせいかと思い後飾り祭壇を見るとキンクマが遺影の前に座っていた。
 そうして、また「ありがとう」
俺は心労から幻聴があるのかと疑った。
 キンクマは俺の方を向き「ありがとう」
たしかに言った。キンクマが喋った。これは夢で俺は疲れているだけ。早く寝るよう脳がサインを出しているのだと、椅子から立ち上がったとき
「タツジュン」キンクマの口が発音していた。

 遥香があの世から戻ってきたんじゃないか、いや、疲労困憊による気のせいだと思った。


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