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責任の判断基準が明確なら

わたしがされて嫌な事が、他人がされて嬉しい場合
わたしが他人からの施しを拒否すると
酷い人になってしまう

わたしの現状などが、他人には抜け落ちる視点

責任の判断基準が明確なら
問題が解決する気がするのに


ご飯を残すのが、悪いことと考えている人は
体調不良でご飯を残したら、罪悪感を覚えてしまうなので他人がご飯を残すと、イラっとする

一方、ご飯を残すのは文化などから
なにも悪いことではないと考えている人は
他人がご飯を残すのを、全く悪いと思わない
    
もし自分が作った料理も、少し残されると
ショックは受けず、こんなものと受け止める

個人が『善悪の定義』にこだわると
自分を責めたり、他人を責めたりになる

何かを責めても建設的な前進はないのに

人は誰しもが自分は人生の主人公で
客観視や俯瞰は、なかなかしにくい
   
自分は変わりたくない、周囲が変わるべき
こんなことが心に潜んでおり
これは結果的に自分の責任を放棄している

体調不良の人が、私の手作りご飯を残したのは
良かれと思って作った自分にも原因がある
…なんて1ミリも考えない

「ご飯を作ってあげたのに残すなんて酷い!」

なぜなら
ご飯を残すのは悪いことだと身についているから
尚且つ
責任を取りたくないので反射的に他人を責めている

罪悪感はときに
変えられない価値観へ執着して進歩を止める
    
自責に重きを置くのではなく
自分の原因と要因を反省し
次に、自分はどうしたらよいか

自己の改善点に意識を高めていけば
他人ばかりを責めることがなくなる

個人の善悪の定義に比重を置かない
自分が原因で身に起こることは、主に自分の責任
他人が原因で身に起こることは、主に他人の責任

シンプルにこれで良いような
  
個人の善悪の定義だけに固執すると
本当の責任や原因を見過ごし批難と断罪に集中する

いつまでも過去の嫌な思いに囚われてしまうのに

内観しているのでお気になさらず

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