見出し画像

ももまろ 「書くこと」の本質

 シロクマ文芸部や毎週ショートショートnoteへは
メンバーシップに加入している件もあるが、
その前から気軽に参加していた。

 最近は創作するのが、かったるい。

 わたしの先入観で
「創作大賞やピリカグランプリ、各コンテストに受賞していないと書き手の価値はない」

 他人は権威に靡くと思い込んでいる。
この場所で書き続ける意味はどこにあるのだろう。

 過去にピカソの『青の時代』を観に行った。
美術館の入り口にある少年・ピカソが描いた絵を人は素通りし、青の時代では人の流れが止まる。

 わたしには都合が良かったので、10代前半の絵画を観ていたが、青の時代より「何が伝えたいか」が明瞭で絵画の光景へ目を向けた。

『ピカソ』『青の時代』が有名だから、そこに人が群がるのかは分からないが、
「○○が描いた××だから」
この理由の人に絵画の味わいが分かるのだろうか。

 スーパーの598円で売っているマグロを
「大間のマグロ」と振る舞ったところで有り難がるような人に何が分かるのだろう。



 Xで村上春樹botというアカウントが流れてくる。
流れてくると、きちんと読むわたしがいる。
「村上春樹って芥川賞や直木賞の受賞者だっけ」

 そう考えていくと、知名度が高い大人気作家の
山田悠介は無冠だったと思う。
彼の文章が上手いとは感じないが、矛盾を見つけて笑い転げている自分がいた。

 好きな作家がいて、受賞歴があるから好きだとか
1ミリも感じたことがないのに気づく。

 ドラマや映画を観て
「この俳優は○○を受賞した」などで決めない。
カンヌやアカデミー賞に関心がないので、
端役であっても、好きな俳優だから観てしまう。

 音楽や絵画などの芸術も、何賞を受賞したなど、
わたしにはサッパリ分からない。
「好きだな」であっさり決めてしまう。

 ブランドに無関心なのかもしれないし、
たまたまブランドだったのかもしれない。

 メイクの色物を友達が見て
「デパコスが多いね」と言ってきても、
「綺麗な色だったから買った」に過ぎない。
 それがダイソーやseriaの100均であれ、
綺麗な色だと買って使う。


 
 書くのは好きだが、辞めようかなと思っても
「下手だから書き続けるんじゃないですかね」
もう一人の自分 (うめこ) がツッコミを入れる。

 うめこは鋭い。

「ももまろが下手だから書くのがだるいとか、
受賞者がいるから辞めたいと言うのは、
恵体の人が
『こんなデブデブの身体でジムに行くのが恥ずかしい〜』に似てるよ。
デブデブの身体だからジムに行って、
恥ずかしくて、
悔しいから痩せようと思うのが普通じゃね?
恥ずかしいからジムに行かないと、一生デブだし、
周りに笑われながら生きて行く。
それと文章を書くのは似ていて、恥でも外へ出さなきゃ一生下手くそのままじゃん」



 そういえば、
なぜ、わたしは文学へは権威を意識するのだろう。

 思い返せば、高校時代。
現国の副読本へ直木賞や芥川賞の年表があった。
そこへは、石原慎太郎『太陽の季節』があり、
少なからずわたしへ影響を与えた本だ。

「男子へ簡単に靡くと捨てられる女になる」
思春期の、10代前半での感想は、
中年のわたしへも生きた教訓になっている。

 そして、その通りに生きてきた。
本当に相手が好きなら好きだと言わない。
「わたしが死んだ動機は
好きな人へ大ダメージを与えるためにある」まで考えた一冊だ。

 アゴタ・クリストフの小説『悪童日記』は、
わたしの人生の教科書であり、実践している。

 生きるには戦略も必要だ。
『悪童日記』は道徳や倫理の絶対性に対する問いかけでもある。
 善悪の判断は状況によって変わるものであり、絶対的なものはないのかもしれないのが、わたしの課題になっている。
 
 これらがわたしの骨身に沁みているから、文学や文芸は権威へこだわるのかもしれない。

 村上春樹botを読みながら、村上春樹がそんなに下手かというとそうじゃない。
むしろ唯一無二に思う。

 noteに村上春樹を凌駕する書き手はいない。
華や持つオーラが全く違う。
まどろっこしい文章だが、孤独や喪失への哲学が華やオーラになっているように感じる。

 そう考えたら、
わたしの書いたものが誰かへ届いたり響いたりしたくても、受賞歴などの成功体験がなくても、
わたしに与えられたスペースで、自分が書きたいことを書き散らしていいのではないか。

 周囲の喧騒は無視して、自己表現に特化する。
こういった在り方の人間がいたっていいじゃん。
自分が好きでやっていることを、
自分が制止して、ナンセンスだ。

 交流しないと読んでくれない。
なんだよ、それ。
文章に魅力がないから交流頼みって。

 交流の「ついでに」斜め読みされて、
作品の評価は「おまけ」みたいなもの。
だからコメントがズレているんでしょう。
社交的な要素よりも作品の内容や表現に焦点を当てて評価されたい、という願望がわたしにはある。

 他人を見ていると、
耳が痛いフィードバックを拒否するくせに、
作家になりたいとかヘソが茶を沸かすわ。


 わたしは純粋に創作を評価されたい。
でも人間関係に対する価値を尊重しながら、
わたしにとって心地よい創作活動のスタイルを見つけていきたい。

 わたしは作家志望ではないからさ。
趣味を極めたいの。



 結局書くことの意味は、
他人の評価や受賞歴に依存するものではなく、
自分自身の内面を映し出す写真のようなものなのかもしれない。

 権威や名声に縛られず、自由に表現するからこそ創作の楽しさだと気づく。

 これからも自分のペースで、好きなように書き続けていこう。
誰かの目に留まるかどうかは分からないけど。

 しかし、それが私にとっての
「書くこと」の本質なのだから。